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阿井莉沙にロンドンハーツ ポン村上が熱愛告白!?

阿井莉沙のぐだぐだトーク

なにも考えずに撮影を開始しました。 ノープランですので阿井莉沙がよくわからない話を延々としています。 ぜひぜひ最後までみてください。

ロンドンハーツ ポン村上 阿井莉沙 告白

本日28日放送のテレビ朝日「ローンドンハーツ」で、お笑いコンビ「フルーツポンチ」 のポン村上さんこと村上健志さんが、元アイドルの阿井莉沙さんに 番組中に「好きです、付き合ってください!」と告白していました。(*^。^*)まあ、本気かウソか知りませんが、平和ボケしてる感じで、良いですね。ハハハハハハハッハ!

言葉のくすり 渥美清(寅さん)ってどんな人?

渥美清ってどんな人?

本名 田所 康雄
たどころ やすお
別名 寅さん、風天(俳号)
生年月日 1928年3月10日
没年月日 1996年8月4日(満68歳没)
出生地 日本・東京府東京市下谷区
(現:東京都台東区)
職業 俳優、コメディアン
ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台
活動期間 1951年 – 1996年
配偶者 あり
家族 父:田所友次郎
母:田所タツ
兄:田所健一郎
主な作品
映画
『拝啓天皇陛下様』
『男はつらいよ』シリーズ(全48作)
『八つ墓村』
『幸福の黄色いハンカチ』
『キネマの天地』他
テレビドラマ
『渥美清の泣いてたまるか』
『男はつらいよ』他
受賞
・1988年 紫綬褒章
・1996年 国民栄誉賞

小林 信彦

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渥美 清(あつみ きよし、1928年3月10日 – 1996年8月4日)は、日本の俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。愛称は、寅さん、風天(俳号)

渥美清 来歴・人物

渥美清の生涯

1928年(昭和3年)3月10日に、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。

1934年11月、上野の板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。

欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。
1940年に板橋城山高等小学校に入学。第二次世界大戦中の1942年に巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。偶然にもこの日は渥美の17歳の誕生日であった。

卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。

1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。

中央大学経済学部入学後、船乗りを志して退学したが母親に猛反対されたため断念。

知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。

なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。”渥美”は愛知県の渥美半島から採ったとされる。

1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。
1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
1954年、肺結核で右肺を摘出しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。

1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。
1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。

1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。
同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。

当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎、丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。

1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。

1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(喜劇急行列車、喜劇団体列車、喜劇初詣列車)(1967年~1968年)なども有名である。

1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到した。
1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。

1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。
1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。

1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。

映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。特に1977年『八つ墓村』が松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことは大きな岐路となる。

1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど~昭和のこころ 古賀政男~』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるにはいたらなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。

1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章受章。
その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった、遺作は亡くなる直前まで出演した48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。

後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。

ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。

また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。49作目は秋からクランクインが予定されていた。田中裕子がマドンナ役の予定だった。

病気については1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。
1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば、病院で癌の手術が手遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。また同年6月に49作の映画化の件で話し合い、肉を食べ撮影に意欲を燃やしていたとのことである。

1996年(平成8年)8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にてこの世を去る。68歳没。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の火葬場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。

そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が
5年前に渥美さんの病気を知り、予断を許さないのは知っていました。体の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。この時、この陽気な男が、映画から手を引く日も近いと思っていました。そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。医師から、正月遺作となった映画に出演できたのは、奇跡といわれました。ああ、悪いことをしました。後悔しています。つらい思いをさせてすいませんでした。7月に入院して、肺の手術をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出来ず、うつむいたままと聞きました。何故そんなに苦しめたのか。27年間、映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。スタッフも幸せでした。心からお礼を申し上げます。

という弔辞を読み上げた。

世間では、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。

妻は熱心なカトリック信徒で、彼自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事が明らかになっている。
渥美は亡くなるまで芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。

渥美清 経歴についての異説

渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。

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巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。

渥美清 実像

「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は自身公私混同を非常に嫌い、他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で、撮影協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。

芸能界の関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友であった黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている[1]。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという[2]。

プライベートでの交流が多かった数少ない芸能人として笹野高史、柄本明がいる(笹野と柄本は自由劇場で同僚でもあった)。2人とも「男はつらいよ」シリーズの共演者であった。芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督に笹野を紹介したのは渥美自身であった。

渥美は藤山寛美を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットには「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で見るだけで、楽屋には寄らずに帰れる。帰る道すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている。」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「横丁のトラ公、まだ帰ってこんのか。」と言うアドリブを発していた。[3]

原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることも多かった。

一方で非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていた。しかし「寅さん」とは、まったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らには、ほとんど気づかれなかったという。
山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2,3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している[4]。

家族構成は妻と子供2人で、長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった[5]。結婚式は親族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表する事はなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。結婚まで秘密にしていたため、没する数年前でも渥美が独身と思っていた人が多かったようである。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は『新珠三千代さんごめんなさい。』の迷コメントを出した。

黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。ちなみにその際それを報道したスポーツ新聞の紙面には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をしていた時の写真が掲載された。これは当時マスコミにはその写真しかなかったためである。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席したり、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。また森繁久彌は、渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。

2006年9月4日にNHKプレミアム10で放送された『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。

なお永六輔とは、少年時代から旧知の仲であり、永六輔によると渥美は永も所属していた不良グループのボスであったという。更に永の言葉によると、渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導された事があった。その時の刑事に、「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。

山田洋次系以外のスタッフでは、脚本家鈴木尚之が節目節目で招かれており、信頼が厚かったことを伺わせる。ただし、渥美自身が企画し鈴木が執筆した、1972
年春公開の『あゝ声なき友』が不振に終わり、厳格な今井正監督の現場になじめなかったこともあって、これを境に渥美は山田作品に専心するような形となる。その5年後の『八つ墓村』が記録的大ヒットにもかかわらず、松竹と角川書店(角川春樹)の確執からシリーズ化できなかったことがこの流れを決定づけた。

脚本家早坂暁は大学時代に銭湯で渥美清と知り合い、何度もプライベート旅行に行くなど親友となった。渥美は、早坂との旅行を大変楽しみにしており、渥美の死後発見された晩年の手帳には「……家族で旅行に行こう。ギョウさん(早坂暁の暁を音読みしたもの)も一緒に……」と綴ってあった。 2006年に放送された「渥美清の肖像~知られざる役者人生~」によると、早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられなかったことを危惧し、渥美主演の作品を数作企画していたが、実現しなかったそうである。 しかし、渥美には、初期のテレビドラマ「泣いてたまるか」や、上記「土曜ワイド劇場」の第1回作品の「田舎刑事」シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。

長男田所健太郎は、ニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていた。後に渥美清が彼の父親として来社したため、社内は騒然となった[6]。
晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年)に詳しく紹介されている。

渥美清 主な出演

渥美清 映画

おトラさん大繁盛(1958年)
南の島に雪が降る(1961年)
投資令嬢(1961年)
大江戸評判記 美男の顔役(1962年)
あいつばかりが何故もてる(1962年)
若き日の次郎長 東海道のつむじ風(1962年)
おかしな奴(1963年)
つむじ風(1963年)
拝啓天皇陛下様(1963年)
無宿人別帳(1963年)市兵衛
太平洋の翼(1963年)丹下一飛曹
散歩する霊柩車(1964年)
馬鹿まるだし(1964年)
続・拝啓天皇陛下様(1964年)
拝啓総理大臣様(1964年)
風来忍法帖(1965年)
ブワナ・トシの歌(1965年)
沓掛時次郎 遊侠一匹(1966年)
喜劇急行列車(1967年)
喜劇団体列車(1967年)
父子草(1967年)
喜劇初詣列車(1968年)
燃えつきた地図(1968年)
白昼堂々(1968年)
スクラップ集団(1968年)
喜劇 爬虫類(1968年)
でっかいでっかい野郎(1969年)
喜劇 女は度胸(1969年)
男はつらいよシリーズ(1969年 – 95年、97年、全49作) – 車寅次郎
トラ・トラ・トラ!(1970年)※日本公開版のみ
家族(1970年)
喜劇 男は愛嬌(1970年)
あゝ声なき友(1972年)
故郷(1972年)
砂の器(1974年)ひかり座の支配人
ビューティフル・ピープル ゆかいな仲間(1974年)日本語版ナレーター
友情(1975年)
同胞(1975年)
八つ墓村(1977年)
幸福の黄色いハンカチ(1977年)渡辺係長
皇帝のいない八月(1978年)
遙かなる山の呼び声(1980年)
キネマの天地(1986年)喜八
二十四の瞳(1987年)ナレーター
ダウンタウンヒーローズ(1988年)ナレーター
学校(1993年)八百屋の親父

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渥美清 テレビ

第14回NHK紅白歌合戦(1963年) 応援ゲスト
四重奏(1964年、日本テレビ)
渥美清の泣いてたまるか
大和魂くん
東芝日曜劇場(多数出演)
人形佐七捕物帳(1965年、NHK)
おんなの劇場 出雲の女(1969年、フジテレビ)
おれの義姉さん(1970年、フジテレビ)
こんな男でよかったら(1973年、よみうりテレビ)
ヨイショ(1974年6月 – 11月、TBS)
天皇の料理番(1980年10月 – 1981年3月) ナレーション
田舎刑事 (1977年、テレビ朝日)
「幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜」(古賀政男役、1979年)
木曜ゴールデンドラマ「花嫁の父」(1981年)
花へんろシリーズ(1985年 – 1988年) ナレーション

渥美清 ラジオ

『渥美清 ローマンス劇場』
『渥美清の男性諸君』
いずれも「一慶・美雄の『夜はともだち』」内包番組(TBSラジオ/1976年~1978年)

渥美清 CM

ハナマルキ
エーザイ
ブリヂストン 新・回転理論技術「DONUTS(ドーナツ)」 専属キャラクター[7]
ロート製薬 「パンシロン」[8]
サントリー「サントリー生ビール ナマ樽」
中外製薬「バルサン」
いすゞ自動車 「エルフ」
日本アイ・ビー・エム 「IBMマルチステーション5550」
日本テレコム
朝日新聞 [9]
パイオニア「DVDレコーダー」(没後に製作)

渥美清 シングル

泣いてたまるか(TBS連続テレビドラマ「泣いてたまるか」主題歌)(B面:若いぼくたち/ミュージカル・アカデミー)(1966年5月10日)
オー大和魂(TBS連続テレビドラマ「大和魂くん」主題歌)(B面:雨の降る日は天気が悪い)(1968年10月)
男はつらいよ(フジテレビ連続テレビドラマ「男はつらいよ」主題歌、松竹映画「男はつらいよ」主題歌)(B面:チンガラホケキョーの唄)(1970年2月10日)
ごめんくださいお訪ねします(松竹映画「あゝ声なき友」主題歌)(B面:あゝ声なき友)(1972年3月25日)
さくらのバラード(歌:倍賞千恵子)(B面:寅さんの子守唄)(1972年4月)
こんな男でよかったら(B面:ひとは誰でも)(よみうりテレビドラマ「こんな男でよかったら」)(1973年4月5日)
いつかはきっと(掛け声:山田パンダ)(TBSテレビドラマ「ヨイショ」主題歌)(B面:遠くへ行きたい)(1974年8月25日)
寅さん音頭(B面:赤とんぼ)(1975年7月5日)
祭りのあと(B面:駅弁唱歌)(1975年9月5日)
渥美清の啖呵売I(B面:渥美清の啖呵売りⅡ)(1976年6月25日)
浅草日記(B面:すかんぽの唄)(1977年6月25日)
今日はこれでおしまい(1977年10月25日)
DISCO・翔んでる寅さん(B面:寅さん音頭)(1979年7月25日)

渥美清 アルバム

渥美清が歌う哀愁の日本軍歌集(1968年12月5日)
噫々戦友の詩(きけわだつみのこえ)より(1971年)
男はつらいよフーテンの寅と発します!(1971年11月)
男はつらいよ名場面集(第一集)
男はつらいよ名場面集(第二集)
男はつらいよ名場面集(第三集)(1974年)
渥美清ベストヒット28(1976年)

渥美清 著書

『きょうも涙の日が落ちる 渥美清のフーテン人生論』 (展望社、2003年)
『渥美清わがフーテン人生』「サンデー毎日」編集部編 (毎日新聞社、1996年)
『赤とんぼ 渥美清句集』 森英介編 (本阿弥書店、2009年)

渥美清 参考文献

関敬六 『さらば友よ』(ザ・マサダ、1996年)
渥美清の肘突き 人生ほど素敵なショーはない (福田陽一郎、岩波書店)
おかしな男 渥美清(小林信彦、新潮文庫)
知られざる渥美清(大下英治、廣済堂文庫)
渥美清 浅草・話芸・寅さん(堀切直人、晶文社)
拝啓渥美清様(読売新聞社会部、中公文庫)
渥美清の伝言(NHK同制作班編 KTC中央出版)
渥美清晩節、その愛と死 (篠原靖治、祥伝社)

渥美清 親族

田所健太郎
長男。株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイト、(有)チェリーベルがある 。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。
山岡和美
元ニッポン放送アナウンサー、長男の妻。

渥美清 渥美清を演じた、ものまねをした人物

南原清隆-ドラマ「渥美清物語」で主演。
原一平-寅さんのものまねは、渥美本人も生前から認めていた、唯一の渥美清公認ものまね芸人。寅さんのものまねをする際に着用する衣装は渥美本人が映画で実際に使っていたのを譲り受けた物である。
佐々木つとむ-1970年代に人気を博した。
フランクさな寅(フランクさな寅ブログ) 地元ですら知る人ぞ知る「広島の寅さん」。TSS「親子笑劇場電太郎一家」(ローカルミニドラマ。既に終了)にドラ猫のドラ役で出演していた。
野口陽一 山田洋次監督公認。
山口智充(「ワンナイR&R」にて)

渥美清 脚注

^ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想より)
^ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想より)
^ 小林信彦「おかしな男 渥美清」
^ 「男はつらいよ DVD BOX」、監督の特典インタビューにて(2008年収録)
^ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想)
^ 余談だがギタリスト布袋寅泰が同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口であった際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、部屋の隅にでも飾ってやってください。」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという(布袋のブログの記述による)。
^ 1995年から逝去後の1997年まで、「ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。またこのCMは放映時期の季節に合わせて、渥美の服装と背景が変化した。
^ 幼少時代の沢田聖子と共演(父親役の渥美清が沢田を肩車するシーン)したバージョンがあった。ちなみに渥美は前出のブリヂストンのCMと同じく逝去直前に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していたことがある。
^ CMのキャッチコピーは「歴史は、あっちこっちでつくられる。」。コピーライターの神様と称される仲畑貴志の手によるものである。

ポジティブシンキング

シャクティ ガワイン
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一日に少なくとも一つは自分の力に余ることを成し遂げようとしない限り、どんな人間でも大した成功は収められない。 エルバート・ハバード

財産を失っても痛手はない。健康を失うと痛手は大きい。勇気を失うと、それこと取り返しがつかない。           作者不詳



マルティン・ルター¥ 1,575

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この世を動かす力は希望である。やがて成長して新しい種子が得られるという希望がなければ、農夫は畑に種をまかない。利益が得られるという希望がなければ、商人は商売に取りかからない。          マルティン・ルター


目標をあくまでも貫くことは、気概あるものの精神をがっちりと支える筋金の一本であり、成功の最大の条件である。これがなければいかなる天才でも方針を失い、ただやたらにエネルギーを消費するだけである。 チェスタフィールド

現実の人生では、あらゆる偉業は信念に始まり、信念によって第一歩を踏み出す。
                  アウグスト・フォン・シュレーゲル

たとえ信念があっても、達成できることは極わずかなものだ。しかし信念がなければ、何事も達成できない。          サミュエル・バトル

行動は必ずしも幸福をもたらさないかも知れないが、行動のないところに幸福は生まれない。               ベンジャミン・ディズレーリ


デール カーネギー¥ 980
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不可能だと思わない限り、人間は決して敗北しない。 デール・カーネギー



年を取れば額にしわがよるのは仕方がないが、心にまでしわを作ってはならない。
                     ジェームズ・ガーフィールド

人生において重要なことは、大きな目標を持つことと共に、それを達成できる能力と体力を持つことである。             ゲーテ

雄弁に欠かせないものは誠実さである。自分に対して誠実な人間になれば、人を説得することができる。             ウィリアム・ハズリット

失敗は一種の教育である。「思考」とは何であるかを知っている人間は、成功からも失敗からも、非常に多くのことを学ぶ。  ジョン・デューイ

何かを成し遂げようという気持ちがなければ、世間の何処へ行っても頭角を現さない。                     デール・カーネギー

小さな事柄が人を悩ませるのだ。象が向かってくれば身をかわして逃げられもするが、蠅からは身をかわすことができない。 ジョシュア・ビリングズ

人間を殺すのは仕事ではない。悩みである。仕事は健康に良い。けれど自分の力の限界以上に働くことはできない。悩みは歯車の錆びである。機械が駄目になるのは、絶えず回転するからではなく、絶えず摩擦するからである。 ヘンリー・ウォード・ビーチャー

今日行ないたい善行があれば、すぐに実行せよ。決して明日に延ばすな。
                ジョフリー・チョーサー


長沼 毅¥ 1,449

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人は必ず後悔する。やらない後悔より、やった後悔のほうが良いだろ。 長沼 毅


子供には過去も未来もない、だから現在を楽しむ。-大人はとてもそうは行かない。
               ラ・ブリュイェール

時間ほど浪費しやすいものはなく、時間ほど貴重なものはない。これがなければ、我々はこの世で何事もできないのだから。 ウィリアム・ベン

人生には目標とすべきものが二つある。一つは自分の良くするものを手に入れることだ。もう一つはそれを楽しむことである。二番目のことを実践できるのは賢者だけでしかない。 ローガン・パーサル・スミス

沈没船ジョーク

沈没しそうになった客船の船長が、どう命令して
各国の客を海に飛び込ませるか、という笑い話

アメリカ人には「飛び込めば英雄になれますよ」
ドイツ人には「飛び込むのが規則です」
イタリア人には「きれいな女の人が泳いでますよ」
ロシア人には「海にウォッカのビンが浮かんでますよ」
中国人には「おいしそうな魚が泳いでますよ」
日本人には「もうみんな飛込みましたよ」
韓国人には「日本人は飛び込みましたよ」

笑い飯とは?

笑い飯の基本情報

メンバー 西田幸治 哲夫
結成年 2000年
事務所 よしもとクリエイティブ・エージェンシー(東京本部)
活動時期 2000年 -
出身 吉本興業オーディション
出会い お笑いのイベント
旧コンビ名 たちくらみ (西田)
スキップ (哲夫)
現在の活動状況 テレビ・ライブなど
芸種 漫才
ネタ作成者 両者
現在の代表番組 笑い飯・千鳥の舌舌舌舌
シャバダバの空に
過去の代表番組 ココモコ・ハッピー!笑い飯
爆感!グラビア帝国
トランジスタラジオくん など
同期 品川庄司
ラーメンズ など
受賞歴
2002年 オールザッツ漫才優勝
2002年 M-1グランプリ3位
2002年 笑わん会優秀賞
2003年 ABCお笑い新人グランプリ優秀新人賞
2003年 上方漫才大賞新人賞
2003年 上方お笑い大賞新人賞
2003年 M-1グランプリ2位
2004年 NHK上方漫才コンテスト最優秀賞
2004年 MBS新世代漫才アワード優勝
2004年 上方お笑い大賞新人賞
2004年 M-1グランプリ5位
2005年 上方お笑い大賞最優秀新人賞
2005年 M-1グランプリ2位
2006年 M-1グランプリ4位
2007年 M-1グランプリ5位
2008年 M-1グランプリ4位
2009年 M-1グランプリ2位
2010年 M-1グランプリ優勝

笑い飯(わらいめし WARAIMESHI )は、日本の漫才コンビ。
西田幸治と哲夫の2人からなる。所属事務所はよしもとクリエイティブ・エージェンシー(東京本部)。M-1グランプリ2010王者。

笑い飯 メンバー
 
西田幸治(にしだ こうじ、1974年5月28日 – 、奈良県奈良市生まれ)ボケ・ツッコミ担当
哲夫(てつお、本名:中西 哲夫、1974年12月25日 – 、奈良県桜井市生まれ)ボケ・ツッコミ担当

笑い飯 概要

それぞれ西田は「たちくらみ」、哲夫は「スキップ」という別のコンビで、どちらもボケを担当していた2人が2000年に共通のライブイベントに出演したことをきっかけに組んだコンビである。コンビ名はそのイベント名が「笑いで飯が食えるか!」だったことに由来する。

笑い飯 芸風

二人ともそれぞれのコンビでボケを担当していたことがきっかけとなり、役割を固定せずボケとツッコミが交互に入れ替わるというこれまでの漫才にはなかった独自のスタイルを築き上げた[1]。

このことから「漫才界の革命児」と呼ばれることがある。

また、この独特のスタイルは「Wボケ」と呼ばれ松本人志や島田紳助から高い評価を受けている。

ただし二人とも、笑い飯がWボケの祖であるという見方には懐疑的である。哲夫は「昔の漫才を見ると両方ともボケているのがたくさんあった」という認識から、温故知新という考えのもと現在のスタイルを生み出したと語っている。[2]

漫才の本筋は基本的に全て哲夫が説明する。主に哲夫が先にボケて、最後に西田のボケで締める場合が多い。また、後半になってくると、哲夫が西田のボケをパクるというボケを挟んでくるパターンもある。

また、コンビ結成当初、哲夫がボケで西田がツッコミを担当しているネタもあった。現在でも、ネタの一部でWボケじゃないくだりをやる時はこの役回りになることが多い[3]。

ネタ作りの方法はテーマを出して互いにボケ合い、お互いにネタが尽きるまで続けるという独自のスタイル[4]。哲夫は「ネタのシチュエーションは自分が考えているが、西田のほうが抜群に面白いボケを考える」と冗談交じりに述べている[5]。

笑い飯 略歴

2001年より、吉本興業(大阪本社、2002年より同本部)に所属。所属への経緯について、インディーズでの活動中に第1回M-1グランプリの予選へ出場した事から吉本の目に留まり所属したとの情報があったが、実際はオーディションで入社している[6]。

2002年、第2回M-1グランプリに無名かつノーシードながら決勝進出を果たす。その斬新な「Wボケ」で注目を浴び3位に終わるも知名度を上げるきっかけとなる。この年から9年連続M-1グランプリ決勝進出(大会最多記録)を果たしている。

baseよしもとの舞台に立っていたが、2008年4月6日の「ガンガンライブFINAL」でbaseよしもとを卒業。

2010年春、同社東京本部へ移籍[7]。同年12月26日、第10回M-1グランプリでついに悲願の優勝を果たした。

笑い飯 エピソード

M-1グランプリが大きなきっかけとなって飛躍した彼らだが、最初に彼らの才能を見出したのはバッファロー吾郎の2人だった。

彼らが自らプロデュースするイベント「バッファロー吾郎の爆笑新ネタ逆転満塁ホームラン寄席」に出演させたりと、無名だった2人に活躍の場を与えたという話は有名。

現在でも彼らと親交は深く、いわゆる「バッファロー軍団」の一員とされている。また、インディーズ時代、千鳥、ヘッドライト、ソラシドらと共に「魚群」というインディーズライブを行っていた。その頃から苦楽を共にしてきた千鳥とは、兄弟同然の仲(哲夫はノブと一緒に住んでいたこともある)。

麒麟、千鳥、南海キャンディーズの3組とはbaseよしもと時代からの仲間であり、ライバルでも会った。田村裕曰く「この(4組)中から誰か(M-1)獲ろうぜみたいな気持ちがあった」[8]。後に麒麟が第1回、笑い飯が第2回、千鳥が第3回、南海キャンディーズが第4回大会に無名ながら初めて決勝進出し、それをきっかけにブレイクしている。特に第4・第5回大会では4組とも決勝進出した[9]。

2人とも大喜利が大好きで、得意としている。月に一度、千鳥と共に「笑い飯・千鳥の大喜利ライブ」というライブを京橋花月で行っている。

以前はbaseよしもとで1時間ライブとしてやっていた。2006年の初めには全国ツアーも行なった。ちなみに、関西で行われている大喜利のライブは「ダイナマイト関西」とこのライブだけであり、笑い飯の2人はダイナマイト関西にも頻繁に参加している。

『めちゃ×2イケてるッ!』に出演する際は、西田のドM、哲夫のドSに対する性的嗜好を暴露するのが定番化している。また、2人ともロリコンを自称している。哲夫はデイリースポーツのインタビューで辻希美の大ファンだと答えている。ヨシモト∞では、西田はブス専だと千鳥に暴露された。

『ジャイケルマクソン』で、「クイズ!吉本芸人122人に聞きました」という企画の「憧れの芸人は?」というアンケートで1位 – 4位にダウンタウン、明石家さんまなどがランクインする中で、若手ながら5位にランクインしており、後輩芸人たちからの信望は厚い。

ダイノジは笑い飯について、アイドル的要素の強い芸人ではなく単純に面白い芸人が評価されるという、baseよしもとにおける価値観をつくりあげた功労者であると述べている。
「笑い飯」としての芸歴は2000年から(吉本入社は2001年)だが、西田、哲夫個人の芸歴は共に1996年からのため、年数のみからみると大阪NSC15期(ストリーク、ランディーズなど、西田も実際に在籍したが後に中退)・東京NSC1期(品川庄司など)とほぼ同期にあたる。

NSC出身以外では、同じ1996年に初舞台を踏んだロザン、すっちー(元ビッキーズ)、りあるキッズなどが同期と思われる。しかし、ロザン、りあるキッズ、品川庄司らは彼らを後輩扱いしている。芸歴は下だが先に吉本に入社した千鳥は「さん」付けだが、仲が良いためか半分タメ口混じりで呼んでいる。

コンビ仲が良いが、年々2人きりで会話することも減っていき、最近ではネタ合わせ以外で会話している所を見た人はあまりいないという。シャバダバの空に内の企画で2人きりにされた時は、5分以上沈黙が続いた。

笑い飯とM-1グランプリ

M-1グランプリ決勝戦は第2回から第10回まで過去9回進出。第1回(2001年)は2回戦敗退。審査員の得点はいずれも100点満点。

第2回大会(2002年) 決勝3位 【出番:6番 得点:567 / 700点 】

キャッチフレーズは「今年もM-1予選にノーシードの新星が現れた」。

この大会がほぼテレビ初出演だった(「麒麟枠」)。決勝では「パン工場見学」というネタを披露。斬新な「Wボケ」で前大会準優勝のハリガネロックを退けて暫定3位で最終決戦進出。

ノーシードから最終決戦進出を果たしたのは本大会の笑い飯が初めてだった[10]。審査員の松本人志は優勝したますだおかだよりも10点高い80点を付け「何や? あの面白さ」[11]、ラサール石井は「ビジュアルとネタが全く合っていないのがいい」、島田紳助からは「完成してないのが僕は変におもろかったですね。完成がええ加減なんでね。変にハマってしまいましたね」、と高評価を受ける。

最終決戦では2番手で「機関車トーマス」というネタを披露したが、票の獲得には至らなかった。哲夫はこの結果に未だに納得してないらしい。[12]西田は「僕らとしては紳助さんと松本さんの評価が高ければいい、みたいなところがあればいいなところがあったので、めっちゃ笑ってくれて嬉しかった」と振り返った。

余談だが松本人志は最終審査の際、「笑い飯とフットボールアワーで悩んでいた」が「ネタの完成度が一番高かった」という理由でフットボールアワーに投票した。[11]その一方で後の「放送室」では「笑い飯に投票すべきだったかもしれない」と言う趣旨の発言もしている。

第3回大会(2003年) 決勝2位 【出番:4番 得点:656 / 700点 】
キャッチフレーズは「∞(インフィニティ)」。

前大会での“無名の新星”扱いから一転、優勝候補の1組として決勝進出。1回戦では「奈良県立歴史民俗博物館」というネタを披露。緩急をつけたスピードとオチまでに張り巡らされた完璧な伏線[12]が高く評価され、大会初の審査員全員から90点以上の評価を受けた。

このネタは未だに「伝説のネタ」と評されている[13]。審査委員長の島田紳助からは「100点でもよかったんですけどね。後の(順番のコンビの)ために99点(当時のM-1の個人最高得点)にしただけでね。去年は未完成だったけど今年は完成してる。感動しました」、松本人志からは「去年よりセンスそのままで技術がアップしているんですよね。凄い変わり方ですね、1年間で(司会の西川きよしも同調した)」と絶賛された。

ネタ後、フットボールアワー・後藤輝基を見ると西田曰く「人殺しのような眼をしていた」らしい。岩尾望は「笑い飯の直後だったらメンタル的にヤバかったかも。それくらい動揺した」と振り返っている。

[12]最終決戦では1番手で「かわいそうなゾウ&避難訓練&火災の通報」というネタを披露。哲夫はネタ後、絶対優勝だと思っていたが、フットボールアワーのネタを見てあきらめた。[12]結果は3対4とフットボールアワーに1票差で2位。松本人志は自分の投票したコンビが2年連続で優勝しなかったことから後に「あの2回は番狂わせだったかも」という趣旨の内容を述べた。

第4回大会(2004年) 決勝5位 【出番:7番 得点:615 / 700点】
キャッチフレーズは「予測不能」。

「指の名前&二宮金次郎」というネタを披露。審査員のラサール石井から「完全にネタを二つやっちゃってるんだよね。だからそれが中途半端だったかな」と評された。タカアンドトシと同点になるが、審査員7名中3名の点数が割れ、その内2名の点数が笑い飯の方が低かったことから、最終決戦進出を逃した。

哲夫は2002年、2003年の高評価で今から思えばあぐらをかいていたと振り返っている。[14]松本人志はこの年は審査員ではなかったが、「放送室」で「どうした!?笑い飯」「あそこであのネタを持ってくるのはなぁ…」と発言していた。なお、M-1グランプリ決勝でのネタ時間は4分以内とされていた(ただし、当時はあくまでも目安程度だった)が、6分以上ネタを披露してしまった[15]。そのためか第5回大会からはネタ時間が厳守されるようになった。

第5回大会(2005年) 決勝2位 【出番:1番 得点:633 / 700点 】
キャッチフレーズは「予測不能のWボケ」。

「靴がない」というネタを披露。不利とされる1番手だったが、ファーストラウンドで1番目にネタをやったコンビでは歴代2位の633点を記録(歴代1位のナイツとわずか1点差)し、暫定3位に付けた。

最終決戦では2番手で「ハッピー・バースデイ」というネタを披露。最終決戦3組に残った際、ブラックマヨネーズ・小杉竜一から「ネタ何やんの?」と聞かれ、哲夫が「マリリン・モンローです」[16]と答えたところ、「あれか!?」と小杉は非常に驚いた。

「お化けみたいな漫才を持っている先輩がビビッてくれた」と、哲夫はモチベーションが上がったらしい[14]しかし結果は3対4とブラックマヨネーズに1票差で2位。千鳥からは「よく、あれ(2本目のネタ)を4分の漫才にできましたね」と高評価を受けた[14]。大会後の記者会見で島田紳助は「笑い飯が初出場ならブラックマヨネーズと同点、もしくは笑い飯の勝ちだったかも」という趣旨の内容を述べた。[17]


第6回大会(2006年) 決勝4位 【出番:8番 得点:626 / 700点】
キャッチフレーズは「予測不能のWボケ」。

「箸の持ち方&子供のしつけ」というネタを披露。この年のM-1はメンバーが「(会場の空気が)全体的にフワフワしてた」と語ったほど客席に緊張感が漂っており、笑い飯より前の出番(6番)だったチュートリアルが哲夫曰く「爆発的にウケて」しまう。

島田紳助が「やっと(いいコンビが)来た」という趣旨の発言をしたことも影響し「今年はチュートさん(が優勝)やわ」と思い、そんな雰囲気の中で哲夫は子供のしつけのくだりでネタを途中で飛ばし、いきなり「うがらい(うがい+手洗いをごっちゃにした言葉)」のボケを披露してしまった。

M-1にもう慣れてしまい、ネタ中に他のことを考えられるようになったことも影響したと語る。3位だった麒麟(627点)にわずか1点差で敗退し、最終決戦へ進めず4位に終わった(この年はネタ時間が4分30秒を越えた「4分31秒」だったので審査の段階で減点されていた可能性もある)[18]。審査員の松本人志からは「相変わらずスロースターターなんですよね。だからもうちょっと盛り上がりが最初のほうに欲しかったですね」と評された。

第7回大会(2007年) 決勝5位 【出番:1番 得点:604 / 700点】
キャッチフレーズは「予測不能のWボケ」。

この大会で麒麟の持っていた決勝進出回数(5回)を抜き、単独最多記録を樹立した。不利とされる1番手で「ロボットのしゃべり方」というネタを披露。哲夫曰く、「積み上げ式のかなりゆったり目のネタ」[12]。

初出場のハリセンボンに4点差で逆転されて最終決戦進出を逃す。審査員の松本人志からは「結局普通の漫才に戻ってしまった、(中略)スロースターターなので4分のネタにするにはああするしかなかった、考えすぎた」と評された。[19]後に哲夫は「順番が悪かった。初っ端からあんな変わったことやってもお客さんは付いて来ない」と嘆いていた。[12]

第8回大会(2008年) 決勝4位 【出番:2番 得点:637 / 700点】
キャッチフレーズは「孤高のWボケ」。

敗者復活組を含めた9組中6組が決勝初出場(第1回を除けば最多)となった大会。「闘牛士&追突事故」というネタを披露。

哲夫曰く、「自分らのスタイルいじり」。[12][20]審査員のオール巨人から「何回も見ていると、それに対して強みと弱みがあると思うんですよ。何遍も見てると100点のネタでも100点に見えなくなってくるんですよ。その弱みを今日は感じなかったですね。何遍も見ていることを利用している、

頭の入り方。ネタは変わっているんですけど、非常に分かりやすくて良かったと思いますよ」と高評価を受けた。不利とされる2番手にもかかわらず8組目まで暫定3位だったが、敗者復活枠のオードリーに抜かれて3年連続で最終決戦進出を逃した。637点での敗退はM-1史上最高点数[21]。松本人志は後に「スロースターターと言われたことを意識したからか、前半はすごく良かったが後半の失速感がハンパなかった」[22]と評している。

第9回大会(2009年) 決勝2位 【出番:5番 得点:668 / 700点 】
キャッチフレーズは「孤高のWボケ」。

敗者復活組を含めた9組中7組が決勝経験者だった大会。「鳥人(とりじん)」というネタを披露。初めの設定だけで今田耕司が笑い、それでとてもやりやすくなったらしい。鳥人が焼き鳥を食べながら現れる、小学校に転入したら出席番号はチキン南蛮だったという馬鹿馬鹿しすぎるボケ、同じ説明を繰り返すしつこさ、鳥の被り物を使えばつまらなくなるかもしれないネタを漫才としてやりきった話術[23]が高評価を生み、舞台袖で出番を待っていたハライチは会場の大爆笑に押されてネタ合わせを中断してしまった。

[24]審査では大会初の3人の審査員から98点以上の評価を受けた。審査委員長の島田紳助は大会初にして唯一の「100点」を付け、「100点付けたら後で困るから、100点付けたらあかんと思ったんですよ。上沼さんの98点もたぶん100点の気持ちやったと思うんです。

僕、98(点)にしようと思ったんですよ。でも困ってもええわっていうくらい感動しました」と絶賛した。余談だが松本人志が選評で、「後で鳥人をウィキペディアで調べてみる」と発言、それを受けてウィキペディアに作成された記事が即座に削除される事態が起こり[25]、放送日の2009年12月20日におけるウィキペディア日本語版への「鳥人」という文字列での検索は61000以上に上った[26]。さらに余談だが大会後日、小藪千豊主演の「コヤブ新喜劇」に、タキシードに鶏の頭の「鳥人」として出演、「未公開ボケ」を披露した。

このとき哲夫は「やっと優勝できるんや」と思っていたが、西田は100点が出て、審査員が感動したこともあり、危機感を持っていた。(本人曰く、「3組には残れるだろうと思っていたが、あそこまでハマることは想定していなかった」。)

最終決戦は3番手で「野球の審判&ラグビーのゴールキック」というネタを披露。ネタ終盤のオチに哲夫は「チンポジ[27]」という下ネタを連呼。そのせいか最終審査では1票も得る事が出来なかった[28](ただし、第5回大会でも下ネタは使用している)。

哲夫は一本目からの流れもあり優勝を確信していたため、パンクブーブーに逆転されたことが信じきれずにいたが、帰宅してから「そういえば俺、下ネタしてたわ。そらそやわ」と初めて気付いたらしい[2]。このネタは昔からある笑い飯の初期のネタであり、後日オール巨人が「なぜあのネタをしたのか」と聞いたところ、「一度(M-1で)やってみたかった」とのこと。

また、西田は「すごいと思わせるネタよりも、『笑い飯はアホやな』、と思わせて優勝したかった」とも語っている。後日テレビ番組で哲夫は「本当は最終決勝で人間に男性器のついた『チンポ人』というネタをやろうかと思っていた」と発言している(ボケの可能性もある)。

パンクブーブーは、「鳥人」のネタで凄まじい勢いを見せていた笑い飯に「自分たちの優勝はない」と感じたらしく、「それならばいつも通りやろう」と決めた結果、変な緊張感が抜けて漫才ができたと優勝直後のよしもとオンラインや『おしゃれイズム』で語っている。

逆に、笑い飯がスベっていたら、もしくは笑い飯より出番が先だったら重圧と緊張で優勝は無理だったろうとも語っている。笑い飯にとって最高のネタが、パンクブーブーの勢いを増す決定打になったという、皮肉で数奇な結果を二組にもたらすことになった。

松本人志はチンポジのネタを以前から知っており、後日哲夫に「『チンポジ気にすな』から入るのが面白いと思ってたのに、はじめに『チンチンのポジション気にするな』って説明入れたやろ?あれはいらんと思ってん」と敗因を指摘された。哲夫がそれを千鳥・大悟に話すと彼もまったく同じことを思っていたらしい[2]。西田は審査員が「こいつら、ホンマにアホやな」という狙い通りの笑い方をしていたのでその点は良かったと振り返っている。

笑い飯 悲願の初優勝

第10回大会(2010年) 決勝1位 【出番:6番 得点:668 / 700点 】
キャッチフレーズは「孤高のWボケ」。

10度目の挑戦となった2010年大会で、M-1グランプリが終了することになった。しかし、結成10年目を迎えたため、大会が終了しなくてもこれがラストチャンスだった。

過去最多の4835組が出場した中、大会最多記録となる9年連続決勝進出を果たし、最後の挑戦となった大会。5組が初出場(そのうち4組が笑い飯より順番が先だった)し、9組の平均点が過去最高の「631.1点」、さらに7位から4位までの差はわずか9点と接戦だった中、「サンタウロス」という前年度の「鳥人」と似たパターンのネタ(西田曰く「味を占めた」)を披露。審査員の大竹一樹から「思わず笑ってしまうんですよね。去年と同じくらい面白い」、渡辺正行からは「鳥人のパターンを見ているだけに、それを超えるものを客は、求めていた。

求められているものを、きちっとだす。期待を裏切らない出来。これは、なかなか出来ない。」[29]と高く評価された。6人の審査員から95点以上の評価を受け、暫定1位だったスリムクラブに大差をつけて自己最高得点タイの「668点」を記録。常連の安定感を見せ付け、2年連続、通算5回目の最終決戦進出を決めた。この「サンタウロス」は単独ライブでは「サンタナカイ[30]」という名目で披露されていたが、哲夫曰く「『ウロス部分[31]』と言いたかったからサンタウロスに変えた」。

しかし前大会優勝者のパンクブーブー(敗者復活枠)が「668点」を記録。笑い飯と同点だが審査員4名が[32]パンクブーブーに高い点を付けたため、大会規定により暫定2位でファーストラウンドを終える。2年連続で上位を競り合っていることから司会の今田耕司には「ライバル関係」と言われた。

大竹一樹は「(パンクブーブーは)さすがチャンピオンですね。敗者復活を差し引いて、その期待値をさらに超えてくる」、島田紳助は「僕の中で今日(の1本目)の1番はパンクブーブー、2番が1点差で笑い飯。笑い飯は去年より3点[33]低かった。ただ、皆の気持ちがスリムクラブが本物かどうか見たい」と述べた。

さらに今田耕司がスリムクラブの2本目のネタ後に「会場(の空気)、だいぶスリムクラブに持っていかれてません?」と発言、会場客はスリムクラブ、審査員はパンクブーブーという、笑い飯の優勝は厳しい状況を示唆した。メンバーは最終決戦の出番を待っている間、過去のどの大会でも味わったことのない恐怖を感じたという[34]。

最終決戦では2番手で「小銭の神様」というネタを披露。最終審査の発表を前に心境を尋ねられた西田は「もう、頼むわぁー!」と真顔で懇願、哲夫は「あんなにいい臭いだった西田君の口も最近大便の臭いがしてきた」と発言、緊張感漂う会場が笑いに包まれた。結果は7人中4票を獲得、最後の大会にして有終の美を飾った。西田は優勝が決まると目に涙を浮かべ、「やっとやーっ!」と絶叫、哲夫は「2本目に『チンポジ』やらなくて良かったです」とボケながらも目に涙を滲ませた。9年間の苦節を知る島田紳助や松本人志も感無量の面持ちだった。

残りの3票は初出場のスリムクラブが獲得しており、優勝後の会見で西田は「スリムクラブが怖くて怖くてヒヤヒヤした」と語っている。後日のインタビューでは「2002年の自分達を見ていたようだった」とも語った。なお、西田が優勝後スタッフから聞いた話によると最終審査の際、笑い飯とスリムクラブが同票だったが、松本人志だけまだ投票するコンビを決めておらず、しばらく票を入れなかった。そのためスタッフも「どっちだ!?」という空気になったらしい。[8]

笑い飯 決勝の常連

M-1では一度も準決勝敗退経験がなく、第2回から第10回まで9年連続決勝進出を果たしており、内5回は最終決戦まで進んでいる(優勝1回・準優勝3回・3位1回)。さらに決勝戦では全てベスト5に入っている(第4回はタカアンドトシと得点は同じだったがタカアンドトシより笑い飯に高得点を付けた審査員が1人だけだったため5位、第6回は麒麟と1点差で4位、第7回は敗者復活枠のサンドウィッチマンに抜かれて5位、第8回はナイツと3点差で4位)。このことから「ミスターM-1」、「M-1の申し子」と称されていた。

2003年度から毎年“優勝候補”と言われ続けていたが優勝を逃していたこと、ネタの傾向がスロースターターのため「ネタ時間4分」のM-1では圧倒的に不利だったこと、連続して決勝に進出したために、年々観客や審査員のハードルが上がってしまったこと等から、2008年度のM-1を前に、島田紳助からは「もう優勝は難しいのでは」、松本人志からはラジオ番組「放送室」で「もうM-1に出ないほうがいいのかもしれない」、高須光聖からは「初登場の時(2002年)に獲らせてあげるべきだった」と評されていた(2003年の優勝は笑い飯だと発言したこともあり、松本もこれに同調していた)。松本は同番組で笑い飯をジェロム・レ・バンナに例えたこともある。[35]。

笑い飯 M-1に関するその他のエピソード

2007年度の会見で、「7回中6回出るということは、もはやレギュラー番組」とボケていた。2010年度には、M-1が2010年で終了することを受け「僕たちの貴重なレギュラー番組が終わってしまう」「9年連続出場ということで、我々のM-1義務教育もようやく終わる」とボケた。『アメトーーク!』の「M-1芸人」では「金のキョロちゃん・銀のキョロちゃんみたいに、5回決勝行ったら1回優勝、みたいなルールにならないものか」とボケた。
最終決戦に進出できず4位以下で終わった年は毎回敗退時のインタビューで笑いを取っている(主に西田)。

最終決戦進出を逃した時の笑い飯のコメント

第4回 (笑い飯 5位)
西田 「えー僕らが決勝進出ですってー?」
哲夫 「2本目に用意してたネタめっちゃ面白いんですよ!」
第6回 (笑い飯 4位)
西田 「何とか出してもらえないですかね?」[36]
哲夫 「お金だけでももらえないですか?」[37]
第7回 (笑い飯 5位)
哲夫 「茶の間が怒ってますよ、茶の間が! 『笑い飯を出せ』って!」
西田 「一歩も動かんぞ!」[38]
第8回 (笑い飯 4位)
哲夫 「あんな気持ち悪い奴に負けなあかんのですか? あんな気持ち悪い奴に!」[39]
西田 「思ってたんと違ーう!」[40]

また、毎年控え室でのリアクションで笑いを取っている(主に哲夫)。
「M-1リターンズ2008」では2009年がラストチャンスと言われていた。

しかし、芸歴の算出方法が月単位での計算に変わり2000年7月結成の笑い飯は2010年にラストイヤーを迎える事が明らかになった。よって2009年の時点での出場権は2009年度と2010年度の2回あったが、2009年度の会見で「今年がファイナル」と発言しており、大会後島田紳助にも「ラストイヤー」と言われた。しかし、M-1直後のよしもとオンラインに西田が電話で出演したとき、来年も出るかと聞かれ「出るねん」と答え、出る可能性を示唆していた。

そして2010年度大会にその通り出場、悲願の初優勝を果たした。しかし、優勝後は準優勝のスリムクラブがマスコミに注目され、オファーはスリムクラブの十分の一となった。そのことを自虐ネタにし続けたためか、『お笑いワイドショー マルコポロリ!』でスリムクラブを一日密着するロケを行うオファーが来た(このこともネタにした)。

また、M-1をきっかけにスリムクラブと親しくなり、缶コーヒー「ジョージア」のCMで共演した。

優勝後、最終決戦で披露したネタ「小銭の神様」にちなみ500円玉2万枚(総量140キロ)で賞金1000万円が授与された。また、「小銭の神様」にちなんでM-1グランプリ2010完全版のDVDには初回限定特典として2円還元された。

M-1優勝に関する主な芸人達の評価・感想

島田紳助 (大会実行委員長、審査員長)
「2002年と、2003年と、今年と、本来は3回笑い飯が優勝していなくてはいけなかったと思います。」
「ネタ(の順番)が逆だったら、最後(審査員)7人とも笑い飯でした。」
「笑い飯に優勝して欲しいなと思いながらスリムクラブに入れました。」
「スリムクラブに入れたの僕だけだと思ったんですよね。」[41]

松本人志 (当日の審査員、笑い飯に投票)
「ほんと僅差で『スリム飯』と書こうかと思った」
「最多出場、最後やし取らせてやりたいなあと思った」[42]

南原清隆 (当日の審査員、笑い飯に投票)
「笑い飯は畳み掛けるのと、スリムクラブは引き寄せるのと、いろいろ見えたんですけど、やっぱり畳み掛ける迫力ってことで、僕は笑い飯でした」[42]

渡辺正行 (当日の審査員、笑い飯に投票)
「M-1を盛り上げてきた笑い飯。M-1ラストイヤーは、これでよかったんじゃないだろうか」[29]

中田カウス (当日の審査員)
「僕は最終決戦でスリムクラブに入れました。やっぱり審査には冷徹なところがないとね」[8]

ラサール石井 (審査員歴6回)
「おもろかった。二本目下ネタでも優勝できた」[43]

ナインティナイン
「笑い飯が優勝して思っていたとおり綺麗に終わった。収まりがよかった」[44]

おぎやはぎ
「10年近く連続で出場して無冠ということを考えた審査員の温情だったかも」[45]

太田光
「面白かったです。やっぱり笑い飯がよかった」[46]

スリムクラブ
真栄田賢 「笑い飯さん優勝の瞬間はマイナスの感情は一切なくて、M-1が素敵に終わったなぁと。」[8]

内間政成 「悔しさはなかったですね。優勝はしたかったんですけど」[8]

明石家さんま
「優勝して欲しくなかった」[47]

笑い飯 受賞歴

2002年 第17回 オールザッツ漫才 優勝
2002年 第3回 笑わん会 優秀賞
2003年 第24回 ABCお笑い新人グランプリ 優秀新人賞
2003年 第38回 上方漫才大賞 新人賞
2003年 第32回 上方お笑い大賞 新人賞
2004年 第34回 NHK上方漫才コンテスト 最優秀賞
2004年 第2回 MBS新世代漫才アワード 優勝
2004年 第33回 上方お笑い大賞 新人賞
2005年 第34回 上方お笑い大賞 最優秀新人賞
2006年 第12回 ダイナマイト関西 優勝(西田)
2002年 第2回 M-1グランプリ決勝 3位
2003年 第3回 M-1グランプリ決勝 2位
2004年 第4回 M-1グランプリ決勝 5位
2005年 第5回 M-1グランプリ決勝 2位
2006年 第6回 M-1グランプリ決勝 4位
2007年 第7回 M-1グランプリ決勝 5位
2008年 第8回 M-1グランプリ決勝 4位
2009年 第9回 M-1グランプリ決勝 2位
2010年 第10回 M-1グランプリ 優勝

笑い飯 出囃子

I Want You Back / The Jackson 5

笑い飯 出演作品

笑い飯 テレビ番組

笑い飯 現在のレギュラー番組

笑い飯のモラ王(テレビ静岡、2006年3月 – )不定期放送
笑い飯・千鳥の舌舌舌舌(サンテレビ、2009年4月 – )
笑い飯の笑うスポーツ飯(GAORA)
爆裂バラエティー シャバダバの空に(関西テレビ・2011年4月 -)

笑い飯 過去のレギュラー番組

ナイチンゲーラー(朝日放送、2004年1月 – 2月)
にこいち 〜スーパースター友情列伝〜(朝日放送、2004年4月 – 2005年3月)
万博だがね(メ〜テレ、2004年10月 – 2005年9月)
ワイ!ワイ!ワイ!(ヨシモトファンダンゴTV、2004年10月 – 2005年11月)
お叱りください!(朝日放送、2005年1月 – 2月)
オモシロ好奇心☆どろんぱ!(読売テレビ、2005年4月 – 9月)
スペイン語会話(NHK教育、2005年4月 – 2006年3月)
扇町兎園会(関西テレビ、2006年4月 – 6月)
爆感!グラビア帝国(テレビ大阪、2007年4月 – 2007年9月)
わかってちょーだい!(フジテレビ、2007年4月 – 9月)月曜隔週
ココモコ・ハッピー!笑い飯(テレビ大阪、2007年10月 – 2008年3月)
プライスバラエティナンボDEなんぼ(関西テレビ)不定期出演

笑い飯 過去にメイン出演した単発番組

笑い飯飯店(読売テレビ、2004年3月)
笑い飯藩(読売テレビ、2004年7月)
空想深夜番組 どエンゼル(読売テレビ、2004年11月)
特製笑い飯・ボケしろデラックス!(毎日放送、2004年12月)
空想深夜番組 どエンゼル2(読売テレビ、2005年3月)
笑い飯の臭い飯 〜ザ・監獄漫才〜(日本テレビ、2005年6月)
M-1グランプリ(朝日放送、2002年 – 2010年)
ウンナン極限ネタバトル! ザ・イロモネア 笑わせたら100万円SP(TBS、2011年3月25日)

笑い飯 過去にゲスト出演した番組

爆笑オンエアバトル(NHK総合)戦績1勝3敗 最高425KB
爆笑レッドカーペット(フジテレビ)
めちゃ×2イケてるッ!(フジテレビ)
笑っていいとも(フジテレビ)
2011年2月21日テレフォンショッキング初登場(ピースからの紹介)
ごきげんよう(フジテレビ)
クイズ!ヘキサゴン(フジテレビ)
人志松本の○○な話 (フジテレビ)
快傑えみちゃんねる(関西テレビ)
さんまのまんま(関西テレビ)
ウラマヨ!(関西テレビ)
踊る!さんま御殿!!(日本テレビ)
ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!(日本テレビ)
フットンダ(中京テレビ)
ダウンタウンDX(読売テレビ)
浜ちゃんと!(読売テレビ)
ロンドンハーツ(テレビ朝日)
お試しかっ!(テレビ朝日)
アメトーーク!(テレビ朝日)
クイズ!紳助くん(朝日放送)
美女裁判(朝日放送)
笑いの金メダル(朝日放送)
リンカーン(TBS)
笑撃!ワンフレーズ(TBS)
ザ・イロモネア(TBS)
王様のブランチ(TBS)
痛快!明石家電視台(毎日放送)
ロケみつ〜ロケ×ロケ×ロケ〜(毎日放送)
ジャイケルマクソン(毎日放送)
麒麟の部屋(毎日放送)
Qさま!!(テレビ朝日)
EXILE魂(毎日放送・TBS)
いきなり!黄金伝説(テレビ朝日)
さんまのSUPERからくりTV(TBS)
秘密のケンミンSHOW(読売テレビ)
にじいろジーン(関西テレビ)

笑い飯 テレビドラマ

幼獣マメシバ(2009年、UHF)西田幸治が笹波幸四郎役で出演。
もやしもん(2010年7月、フジテレビ)西田幸治が美里薫役(西田は美里の外見上のモデルである)で出演。哲夫も第10話で研究員A役で出演。

笑い飯 ラジオ番組

笑い飯のオンスト(YES-fm、2003年8月 – 2004年9月)
ゴーゴーモンキーズ水曜日(MBSラジオ、2004年10月 – 2006年3月)
月曜JUNK2・笑い飯のトランジスタラジオくん(TBSラジオ、2005年4月 – 2007年3月)
ゴー傑P(MBSラジオ、2006年4月 – 2009年3月)
笑い飯の金曜おたのしみアワー(MBSラジオ)

笑い飯 テレビCM

551蓬莱「豚まん」
デビルマン(劇場映画告知)
資生堂「uno」
NTT西日本「あそむび幸運探偵風烈光の事件簿」
ウィルコム「ウィルコムタイム」(声のみ)
アピタ・ピアゴ 2010年初売り(声のみ)
日本コカ・コーラ「ジョージア エメマンバトル」※スリムクラブとともにブラック派
オートバックス
日清食品「阪神タイガースキャンペーン」(2011年)※関西ローカル

笑い飯 出演DVD

M-1グランプリ2002完全版〜その激闘のすべて〜
M-1グランプリ2003完全版〜M-1戦士の熱き魂〜
M-1グランプリ2004完全版〜いざ!M-1戦国時代へ”東京勢の逆襲”〜
M-1グランプリ2005完全版〜本命なきクリスマス決戦!“新時代の幕開け”〜
M-1グランプリ2006完全版〜史上初!新たなる伝説の誕生〜完全優勝への道〜
M-1グランプリ2007完全版〜敗者復活から頂上へ〜波乱の完全記録〜
M-1グランプリ the BEST 2001〜2003
M-1グランプリ the BEST 2004〜2006
M-1グランプリ the BEST 2007〜2009
M-1グランプリ the BEST 2001 – 2006 DVD BOX
M-1グランプリ2008完全版〜ストリートから涙の全国制覇!!〜
M-1グランプリ2009完全版〜100点満点と連覇を超えた9年目の栄光〜
M-1グランプリ2010完全版 〜最後の聖戦!無冠の帝王vs最強の刺客〜
M-1グランプリ the FINAL PREMIUM COLLECTION 2001-2010
笑い飯・千鳥の大喜利ライブDVD
新風baseよしもと ネタトウタ2004
baseよしもと ネタトウタ2007
バトルオワライヤル
〜漫才ファッションショー〜漫服
ダイナマイト関西〜全日本大喜利王決定トーナメント大会〜
ダイナマイト関西2006〜オープントーナメント大会〜
ダイナマイト関西2008〜オープントーナメント大会〜
ジャッカス・ザ・ムービー 日本特別コメンタリー版
ZAIMAN ZAI
YOSHIMOTO PRESENTS LIVE STAND 07
メッセ弾「ある意味コワイ」爆笑トーク編
コバヤシケンドーのすべらない話
幼獣マメシバ
もやしもん
笑い飯「ご飯」〜漫才コンプリート〜
笑い飯「パン」〜笑いの新境地〜
出演ミュージック・ビデオ [編集]
BAKI『あなた』

笑い飯 連載

笑い飯の日本列島改造計画(クイック・ジャパン、太田出版)
へが出るコラム(TV Bros.、東京ニュース通信社)
笑い飯の人生相談道場(まんがライフMOMO、竹書房)
笑い飯の巻頭SM日記(relax、マガジンハウス)
笑い飯分校(COOLTRANS、ワニブックス)
笑い飯・哲夫の滑り飯!(BravoSki、双葉社)
お笑いの本棚(朝日新聞)

笑い飯 単独ライブ

2003年
2月24日 「ガブンチョ1Hスペシャル〜笑い飯〜」(baseよしもと/大阪)
10月13日 「近鉄超特急」(baseよしもと/大阪)
12月5日 「近鉄古大宮」(baseよしもと/大阪)
2004年
2月13日 「近鉄佐々木新社長」(baseよしもと/大阪)
4月23日 「近鉄あやめダム遊園地」(baseよしもと/大阪)
6月19日 「近鉄俊徳道行 アーバンライナー」(baseよしもと/大阪)
8月14日 「近鉄バッファローズvsヤクルトおいし〜ず」(baseよしもと/大阪)
10月8日 「笑い飯のおもしろライブ〜大阪公演〜」(baseよしもと/大阪)
11月18日 「笑い飯のおもしろライブ〜東京公演〜」(銀座ガスホール/東京)
2005年
1月15日 「笑い飯のおもしろ近鉄ライブ」(baseよしもと/大阪)
2月5日 「笑い飯のおもしろ近鉄ライブ〜東京公演〜」(ルミネtheよしもと/東京)
3月8日 「笑い飯のおもしろライブくん」(baseよしもと/大阪)
5月21日 「笑い飯のおもしろライブ会場」(baseよしもと/大阪)
5月22日 「笑い飯のおもしろライブ会場」(baseよしもと/大阪)
7月5日 「笑い飯のおもしろライブゼミナール」(銀座 博品館劇場/東京)
7月25日 「笑い飯のおもしろ漫才」(baseよしもと/大阪)
8月6日 「笑い飯のおもしろオールナイトライブ」(baseよしもと/大阪)
9月13日 「笑い飯のおもしろ漫才」(baseよしもと/大阪)
9月17日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」石川公演(石川県教育会館/石川)
9月18日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」長野公演(長野NBSホール/長野)
9月19日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」新潟公演(新潟LOTS/新潟)
9月24日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」高知公演(高知県立美術館ホール/高知)
9月25日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」愛媛公演(ベスト電器松山本店7F特設会場/愛媛)
9月26日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」名古屋公演(ASUNAL HALL/愛知)
10月1日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」青森公演(下田町民交流センター/青森)
10月2日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」札幌公演(五番館 赤レンガホール/北海道)
10月8日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」岡山公演(岡山3丁目劇場/岡山)
10月9日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」広島公演(よしもと紙屋町劇場/広島)
10月10日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」仙台公演(エルパーク仙台ギャラリーホール/宮城)
10月15日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」福岡公演(ベストホール/福岡)
10月16日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」東京公演(シアターアプル/東京)
10月22日 「笑い飯のおもしろライブツアー2005」大阪公演(baseよしもと/大阪)
2006年
1月17日 「笑い飯のおもしろ正月」(baseよしもと/大阪)
3月20日 「笑い飯の近鉄の長谷寺の牡丹は只今満開となっておりますライブ」(baseよしもと/大阪)
5月10日 「笑い飯のおもしろ漫才」(baseよしもと/大阪)
6月24日 「年末は忙しくなる予定ですライブ」(ルミネtheよしもと/東京)
7月31日 「笑い飯のさくらんぼライブ P.S.女子中高生限定で〜す♪」(baseよしもと/大阪)
9月11日 「笑い飯のおもしろ漫才」(baseよしもと/大阪)
9月17日 「笑い飯のオールナイトトークイベント」(バナナホール/大阪)
10月11日 「笑い飯のおもしろ漫才」(baseよしもと/大阪)
2007年
3月15日 「さくらライナーライブ」(baseよしもと/大阪)
5月17日 「おもしろ田植えシーズン」(baseよしもと/大阪)
7月12日 「海水浴行くなら伊勢志摩ライナーライブ」(baseよしもと/大阪)
9月6日 「おもしろ残暑」(baseよしもと/大阪)
10月12日 「笑い飯のおもしろライブツアー2007」名古屋公演(ASUNAL HALL/愛知)
10月13日 「笑い飯のおもしろライブツアー2007」東京公演(ルミネtheよしもと/東京)
10月20日 「笑い飯のおもしろライブツアー2007」福岡公演(大博多ホール/福岡)
11月11日 「笑い飯のおもしろライブツアー2007」大阪公演(baseよしもと/大阪)
11月13日 「笑い飯のおもしろライブツアー2007」香川公演(サンポートホール高松/香川)
11月16日 「笑い飯のおもしろライブツアー2007」北海道公演(ターミナルプラザことにPatos/北海道)
11月23日 「笑い飯のおもしろライブツアー2007」新潟公演(NIIGATA LOTS/新潟)
2008年
3月14日 「ホワイトデー」(baseよしもと/大阪)
5月23日 「笑い飯のワッハ上方ライブ」(ワッハホール/大阪)
7月29日 「笑い飯のワッハ上方ライブ2」(ワッハホール/大阪)
9月30日 「笑い飯のワッハ上方ライブ3」(ワッハホール/大阪)
2009年
4月3日 「笑い飯のABCホールLIVE」(ABCホール/大阪)
5月31日 「笑い飯のABCホールLIVE2」(ABCホール/大阪)
9月26日 「笑い飯のABCホールLIVE3」(ABCホール/大阪)
11月30日 「笑い飯のABCホールLIVE4」(ABCホール/大阪)
2010年
8月23日 「笑い飯のABCホールLIVE5」(ABCホール/大阪)
9月13日 「笑い飯のルミネLIVE」(ルミネtheよしもと/東京)
10月25日 「笑い飯のABCホールLIVE6」(ABCホール/大阪)
2011年
6月5日 「笑い飯のなんばグランド花月LIVE」(なんばグランド花月/大阪)
6月12日 「笑い飯のルミネLIVE」(ルミネtheよしもと/東京)
関連項目 [編集]

日本お笑い史
千鳥
麒麟
小籔千豊
奈良県立民俗博物館(2003年のM-1グランプリで披露された笑い飯の代表的なネタの元ネタ)
関西サイクルスポーツセンター(ここを元ネタにしたネタがある)

笑い飯 脚注


^ 「ツッコミの役回りの人間も便乗してボケる」というスタイルでのWボケ漫才はすでにシャンプーハットが確立していたが、「役に固執せずボケツッコミを交互に入れ替える」というスタイルのWボケは笑い飯が初であった。
^ a b c 「笑い飯全一冊」 ヨシモトブックス
^ 例としては、M-1グランプリ2008で披露した「闘牛士」というネタの「車上荒らし」のくだりなど。
^ 踊る!さんま御殿!!にて
^ 2009年12月20日よしもとオンラインより
^ お笑いタイフーンインタビューより
^ マンスリーよしもとPLUS 2010年3月号にインタビューあり
^ a b c d e 「M-1完全読本2001-2010」のインタビュー
^ 第4回では麒麟、第5回では千鳥が敗者復活で決勝進出。
^ ノーシードからの最終決戦進出を果たしたのは第3回のアンタッチャブル(前年3回戦敗退)、第7回のキングコング(前年不参加)とこの回の笑い飯のみ。ただしアンタッチャブルとキングコングは以前にもシード経験があった。
^ a b 「放送室」2003.2.6放送
^ a b c d e f g マンスリーよしもとPLUS vol.4
^ マンスリーよしもとplus平成22年1月号
^ a b c 「splash!!」 vol.2 双葉社
^ ちなみに2003年の笑い飯のネタも1本目は4分半を、2本目は5分を超えていた。
^ ネタの途中にマリリン・モンローが登場する
^ DVD 「M-1グランプリ2005完全版 〜本命なきクリスマス決戦! “新時代の幕開け”〜」 YRBY-50040〜41 Disc1
^ ネタ時間が4分を超えると減点の対象となり、4分30秒を越えると1秒につき1点減点されるルールがある
^ 「放送室」2008.1.5放送
^ 「闘牛士」の部分において、いつも西田と哲夫が交互に役を入れ替えてすることに触れ、哲夫が西田に闘牛士をやらせないまま次のネタに行こうとして西田がキレるというボケを挟んだ。
^ 島田紳助からは単独1位評価(95点)を受けている。
^ 『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』2009年2月8日放送
^ AERA Mook「読んでから笑え!」
^ M-1グランプリ the FINAL PREMIUM COLLECTION 2001-2010 YRBY-90369〜70
^ 「「M-1」にネットわく Wikipedia「鳥人」編集合戦、pixivにイラスト続々」 ITmedia News、2009年12月21日。
^ [1]
^ (衣服内での男性器の収まり具合をさす俗語)
^ この大会で最終決戦最多進出4回目での敗退、1位と2位の点数差が17点は過去最高の点差での敗退及び、初めてファーストラウンド1位通過のコンビが最終決戦で票を獲得できなかったと言う最終決戦でのワースト記録を更新。
^ a b 渡辺正行 公式ゴルフブログ
^ サンタクロースとトナカイが合体していることから。
^ 下半身の、トナカイの部分。
^ 島田紳助、松本人志、渡辺正行、宮迫博之の4名
^ ただし実際には前年の100点よりは4点低い96点だった。
^ M-1グランプリ2010完全版 〜最後の聖戦!無冠の帝王vs最強の刺客〜 YRBY-90367〜68 Disc2
^ 松本人志の放送室 第275回 2007年1月6日放送。
^ このコメントに対し審査員の松本から「声小さいねん!」と言われ、さらに今田耕司からは「無理やわ」と返された。
^ このコメントに対し今田から「もっと無理やわ」と返された。
^ このコメントが会場の大爆笑を誘い、この時暫定2位の席にいたトータルテンボスの大村朋宏も大爆笑していた。
^ 「あんな気持ち悪い奴」とはオードリー・春日俊彰のこと。
^ これを聞いた今田耕司は「何があるか全く分からない所でそんなん言う人初めて見ましたよ!!」と語った。また、会場では前年同様大爆笑が起こった。
^ 優勝後の会見
^ a b 表彰式後の審査員総評
^ 石井本人のTwitterでのツイート 2010年12月26日分
^ ナインティナインのオールナイトニッポン 2010年12月30日放送分
^ おぎやはぎのメガネびいき 2010年12月30日放送分 小木は芸人仲間と見ていたが意見が分かれたという。
^ QuickJapan vol.94
^ ヤングタウン土曜日 2011年1月22日放送分より。理由として、グレグ・ノーマンを例に出し「無冠の帝王」がかっこよく、笑い飯も優勝出来そうで出来ないのが良かったらしい(ただし、正確には無冠の帝王ではなく、M-1優勝以前にも他の漫才大会で優勝している)。その後、笑い飯は『さんまのまんま』などでさんまと共演するたびに、さんまと村上ショージだけが祝福してくれないとネタにしている。

ユーモアは人間だけに与えられた笑って生き延びるための知恵!?

・人間は判断力の欠如によって結婚し、
 忍耐力の欠如によって離婚し、
 記憶力の欠如によって再婚する。
 by アルマン・サラクルー

・結婚するとき、私は女房を食べてしまいたいほど可愛いと思った。
 今考えると、あのとき食べておけばよかった。
 by アーサー・ゴッドフリー

・急いで結婚する必要はない。
 結婚は果物と違って、いくら遅くても季節はずれになることはない。
 by トルストイ

・結婚とは、熱病とは逆に、発熱で始まり悪寒で終わる。
 by リヒテンベルグ

・結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ。
 by フラー

・あらゆる真面目な事の中で、結婚というやつが一番ふざけている。
 by ボーマルシュ

・結婚するとは、彼の権利を半分にして、義務を二倍にすることである。
 by ショーペンハウアー

・よい女房をもらおうと思ったら、ダンスの輪の中から選ばずに、
 畑で働いている女性の中から選ばなくてはならない。
 by プリボイ

・結婚生活をいくらでもほめたたえてよい。しかし自分自身は独身でいたまえ。
 by フィールディング

・結婚は、デザートより前菜が美味しいコース料理である。
 by オーマリー

社会的貢献とは幸せそうに笑顔で人に接すること・・・。

斎藤一人さんの言葉に、「社会的貢献とは幸せそうに笑顔で人に接すること。社会的貢献とは笑顔と愛ある言葉」があります。まったく同意です。

狂言

狂言(きょうげん)は、能と同様に猿楽から発展した伝統芸能で、猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇。明治時代以降は、能・式三番と併せて能楽と呼ぶことがある。

狂言 語源

狂言は、道理に合わない物言いや飾り立てた言葉を意味する仏教用語の「狂言綺語」(きょうげんきご)に由来する。

この語は主に小説や詩などを批評する際に用いられた(例;願以今生世俗文字業狂言綺語之誤 翻為当来世々讃仏乗之因転法輪之縁 白楽天)。

この語が猿楽の滑稽な物まね芸を指す言葉として転用され、やがて上述の諸芸能の名称として定着した。

一般名詞としても、滑稽な振る舞いや、冗談や嘘、人をだます意図を持って仕組まれた行いなどを指して狂言と言うようになった。

能は面(仮面。おもてと読む)を使用する音楽劇で、舞踊的要素が強く抽象的・象徴的表現が目立つ。

またその内容は悲劇的なものが多い。これに対し狂言は、一部の例外的役柄を除いて面を使用せず、猿楽の持っていた物まね・道化的な要素を発展させたものであり、せりふも含め写実的表現が目立つ。内容は風刺や失敗談など滑稽さのあるものを主に扱う。

狂言の役柄

狂言で主役を務める者は能と同様にシテというが、脇役を務める者はアドといい、能のワキとは異なる呼称となっている。

アドが複数登場する場合は、一のアド、二のアドと称したり、代表的な者のみをアド、それ以外を次アドまたはオモ(大蔵流の場合)、小アド(こあど。和泉流の場合)などと称したりする。

集団で登場する場合は立衆(たちしゅう)といい、立衆を統率する者を特に立頭(たちがしら)と呼ぶ。一応こういう区別は存するが、実際には主(しゅう)、太郎冠者(たろうかじゃ)、すっぱ、亭主等、その曲その曲の役名で呼ばれることの方が多い。

狂言の分類

狂言は大きく以下の3種類に分類される。

別狂言

能「翁」の一部をなす三番叟(さんばそう。大蔵流では「三番三」と書く)と、その特別演出である風流(ふりゅう)をいう。

本狂言

一曲として独立して演じられるもの。通常、狂言という場合はこれをさす。

間狂言(あいきょうげん)

単に間(あい)とも。能の一部として演じられるものをいう。

本狂言はさらに下位分類されることもある。時代や流儀によっても相違があり一定していないが、大蔵虎寛本(1792年成立)の分類を代表として挙げておく。(これは主役の類型による分類をめざしているように見えるが、類型把握もおおざっぱすぎるという評もあり、また「脇狂言」という番組順の分類名もふくまれており、不統一であるというそしりはまぬかれない。)

脇狂言

めでたさ本位の曲。「末広がり」「福の神」「三人夫」「宝の槌」「鍋八撥」など。

大名狂言

主従もののうち、大名がシテを勤めるもの。「萩大名」「武悪」「靫猿[1]」「今参」「粟田口」など。

小名狂言(しょうみょうきょうげん)

主従もののうち、太郎冠者がシテを勤めるもの。「栗焼」「止動方角」「附子」「棒縛」「鐘の音」「金藤左衛門」など。

聟女狂言

聟入りもののように聟がシテを勤めるもの、及び女性の登場するもの。「二人袴」「八幡前」「比丘貞」「右近左近」「千切木」「寝音曲」など。

鬼山伏狂言

閻魔大王や鬼の類がシテを勤めるもの(人が鬼に化ける話もこれに含まれる)、及び山伏がシテを勤めるもの。「朝比奈」「八尾」「清水」「梟」「柿山伏」など。

出家座頭狂言

僧や新発意、座頭がシテを勤めるもの。「布施無経」「呂連」「薩摩守」「伯養」「猿座頭」「丼礑」など。

集狂言(あつめきょうげん)

上記の分類に収まらないもの。「瓜盗人」「茶壷」「膏薬練」「釣狐」「合柿」など。

狂言の流派

江戸時代に家元制度を取っていた流派としては、大蔵流、和泉流、鷺流の三つの流派が存したが、現在能楽協会に所属する流派として存続しているのは大蔵流と和泉流だけである[2]。

その他に、室町後期~江戸初期には南都禰宜流という神人(じんにん。じにん)を中心とした流派が存在していたことが知られている。

神人とは神社に属して芸能その他卑賤の仕事に従事した者の称で、かつて猿楽が有力寺社に属していた名残とも言える存在である。

室町時代には盛んに活動していたことが諸記録によって窺われるが、江戸時代に入ると急速に衰え、江戸初期には既存の流派(大蔵流など)に吸収されて消滅したと言われている。

その他にも無名の群小諸派が存在したようで、流派としては既に滅んでしまったが、一部の台本は『狂言記』『続狂言記』『狂言記拾遺』『狂言記外編』という一般読者向けの読み物となって江戸時代に出版され、世に残った。

大蔵流

猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派。代々金春座で狂言を勤めた大蔵弥右衛門家が室町後期に創流した。

現在大蔵流には山本東次郎家(東京を本拠)、大藏弥太郎家(宗家。東京を本拠)、茂山千五郎家(京都を本拠)、茂山忠三郎家(京都を本拠)、善竹忠一郎一門(大阪・神戸を本拠)、善竹十郎家(東京を本拠)がある。台本は江戸の大蔵宗家の芸系を受け継ぐ山本東次郎家のものと、江戸時代以来京都を本拠としてきた茂山千五郎家のものとに大別される。

両者は芸風も対照的で、山本東次郎家が武家式楽の伝統を今に残す古風で剛直な芸風なのに対して、茂山千五郎家は写実的で親しみやすい芸風である。


過去に大蔵流から人間国宝に認定されたのは善竹弥五郎(茂山久治)、3世・茂山千作(真一。11世・茂山千五郎)、4世・茂山千作(七五三<しめ>。12世・茂山千五郎。現役)の3人。


和泉流

和泉流は、江戸極初期に京都の手猿楽師(てさるがくし。素人出身の職業狂言師)として禁裏御用を勤めつつ、尾張藩主徳川義直に召し抱えられていた7世山脇和泉守元宜が、同輩の三宅藤九郎家、野村又三郎家を傘下に収めて創流した流派である。

宗家は山脇和泉家。

もっとも、一応家元制度を取っていたとは言え、三派合同で流儀を形成したという過去の経緯もあって、近世を通じて家元の力は弱く、とりわけ三宅藤九郎家と野村又三郎家は独自の六義(りくぎ。和泉流における狂言台本の称)を持てるという特権を有するなど、一定の独自性を保っていた。

現在和泉流は、野村又三郎家(名古屋を本拠。いわゆる野村派)、野村万蔵家・万作家・三宅右近家(東京を本拠。いわゆる三宅派)、狂言共同社(名古屋を本拠。いわゆる名古屋派)に大別され、台本もそれぞれ異なる。芸風は江戸時代においては上方系の写実性に富んだものであったようである[要出典]が、近代に入り東京に進出してから変化した[要出典]。

過去に和泉流から人間国宝に認定されたのは6世・野村万蔵、9世・三宅藤九郎、初世・野村萬(7世・野村万蔵。現役)、野村万作(現役)の4人。

鷺流

鷺流は徳川家康のお抱え狂言師となった鷺仁右衛門宗玄(1560生-1650没)が一代で築き上げた流派である。宗玄は、もとは山城[1]猿楽系の長命座に属していたが、長命座が金剛座に吸収されてからは宝生座に移り、1614年に家康の命令で観世座の座付となったのを機に一流をなした。

家康に寵愛され、大蔵流を差し置いて幕府狂言方筆頭となって以降は、江戸時代を通じて狂言界に重きをなした。芸風は当世風で写実的、悪く言えば派手で泥臭く卑俗なものであったらしい。宗家は鷺仁右衛門家、分家に鷺伝右衛門家(幕府狂言方序列4位)、弟子家に名女川家などがあったが、宗家をはじめとしてほとんどの職分が観世座に属していた。

この観世座というマンモス座に頼り切った脆弱な構造が災いし、明治維新を迎えるや、鷺流は混乱の極みに達した。時の家元であった19世・鷺権之丞は変人と評されるほどの人物でとても流派を統率する力はなく、困窮した職分は大挙して吾妻能狂言(能楽と歌舞伎の折衷演劇。

明治14年頃に消滅)に参加、失敗に終わった後も歌舞伎役者に家芸を伝えたとして能楽界への復帰は許されず、明治28年(1895年)に鷺権之丞が没して宗家は断絶、大正11年(1922年)に最後の鷺流狂言師であった鷺畔翁(晩年は鷺流宗家を自称した)の死去により、能楽協会に所属する流派として廃絶するに至った。

なお、鷺流の狂言自体は山口県山口市(伝右衛門派、県指定無形文化財)、新潟県佐渡市(仁右衛門派、県指定文化財)、佐賀県神埼市千代田町高志(たかし)地区(高志狂言という名称で県指定無形民俗文化財として)などに残っており、国立能楽堂などで上演されたこともある。

また、鷺畔翁をはじめ能楽界を追放された鷺流狂言師たちは歌舞伎界に接近し、「松羽目物」と言われる能楽写しの舞踊劇の演出に多大な影響を与えた。その意味では、鷺流の歌舞伎界に与えた影響は決して小さなものではない。

狂言 関連項目


猿楽
能楽

狂言 脚注

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^ 通常、狂言師は子供のころに、「靫猿」のサル役でデビューする。
^ 鷺流は佐渡島と山口県に残存しているが、能楽協会への入会資格を認められていない。

喜劇

喜劇(きげき、英語:Comedy)とは、人を笑わせることを主体とした演劇や映画、ラジオやテレビのドラマ作品や、それらのなかの笑いを誘うやりとりを指す。コメディとも言う。

ただしコメディ(Comedy)の西洋における元義は、悲劇(Tragedy)の対照を成す意味での演劇である(例えばギリシア悲劇に対するギリシア喜劇)。

従って本来は必ずしも笑えるものだけを意味するとは限らない。 例えば、ダンテの『神曲』も原題は「La Divina Commedia」であり、日本語で通常の直訳では「神聖な(もしくは神の)喜劇」となるが、笑えるものを意味しているわけではない。

コメディ映画

コメディ映画とは「観客を笑わせること」「観客の笑いを引き出すこと」を主目的とした喜劇映画のこと。

コメディリリーフ(あるいはコミックリリーフ)とは、映画中の緊張度の高い場面間に、笑いを誘う場面を挟む手法、あるいはその手法を担う俳優のことを指す。

喜劇 関連語句

コメディアン – 主に、コメディを演じる俳優を指す。女性なら“コメディエンヌ”。
コメディア・デラルテ – 16世紀頃にイタリアで成立した即興仮面喜劇。
コメディアエルディータ – コメディアデラルテに対し、戯曲のある茶番劇。ローマ喜劇の手法が元になっている。
バーレスク – 主に17世紀から19世紀にかけて流行した風刺喜劇。
ファルス – 卑俗な内容の笑劇。道化芝居。
スラップスティック – 激しい身体的動作を伴うコメディ。日本では「ドタバタ喜劇」と訳される事が多いが、厳密には異なる(小林信彦によると、日本で「ドタバタ喜劇」と呼ばれる物はアドリブの要素が大きく、個々の演者の能力に依拠する部分が大きいのだが、「スラップスティック・コメディ映画」は綿密な構成と入念な打ち合わせや準備を要する物で、本質的に異なるという)。
シチュエーション・コメディ – ストーリー性の強い長編コメディ。そもそもは、「スラップスティック」の対義語として使われるようになった言葉である
スケッチ・コメディー – 笑いを題材にした寸劇のこと。日本では、フランス語で「スケッチ」と同意で使われる「コント」と言う言葉が定着しているため、使われることはあまりない。
ロマンティック・コメディ – シェイクスピアの『夏の夜の夢』のような非現実的な設定を持ち、男女の恋愛を描くロマン主義的なストーリーのコメディ。
スクリューボール・コメディ – シチュエーション・コメディの内、特に、男女が対立を繰り返しながら恋に落ちて行くというストーリー展開の、1930年代から1940年代にかけてアメリカ映画で流行したロマンティック・コメディ群を指す。
ソフィスティケイテッド・コメディ – ロマンティック・コメディの一種で、男女の洒落た会話を中心にストーリーが展開する映画作品。
ラブコメディ – 日本における恋愛要素のからむコメディ。和製英語。

喜劇 関連項目

演芸
漫談
漫才
寄席
アチャラカ
浅草オペラ
軽演劇
松竹新喜劇
吉本新喜劇
コメディ・フランセーズ
関連書 [編集]

喜志哲雄 『喜劇の手法笑いのしくみを探る』 集英社新書 集英社 ISBN 4-08-720331-X
中央大学人文科学研究所編 『風習喜劇の変容』中央大学人文科学研究所研究叢書 13 ISBN 4-8057-5308-0

漫才

漫才

漫才(まんざい)は、古来の萬歳を元に、日本の関西地方で独自に発達したとされる、主に2人組で披露される演芸・話芸。

2人の会話の滑稽な掛け合いの妙などで笑いを提供する。大正末期、映画の弁士によって始められた漫談にちなみ、1933年(昭和8年)頃に吉本興業宣伝部によって漫才と名付けられた。漫才を行う者を「漫才師」と呼ぶ。関西圏の漫才を特に上方漫才(かみがたまんざい)という。

漫才の歴史

漫才の発祥と言われる萬歳(まんざい)は、平安時代から始まった芸能で、新年を言祝ぐ(ことほぐ)歌舞である。

2人一組で家々を訪れ、新年を祝う口上を述べた後に、1人片方が打つ鼓に合わせてもう1人が舞う。

江戸時代には、全国各地でその地名を冠した尾張万歳、三河万歳、その後、大和万歳などが興り、歌舞のみでなく言葉の掛け合い噺や謎かけ問答を芸に加えて滑稽味を増し発展していった。

しかし、第二次世界大戦後にはほとんど行われなくなった。今では保存会などが復興・継承している。

明治時代から行われた大阪の寄席演芸である万才(まんざい)は、この萬歳のうち三曲萬歳をベースにしたとされる。三曲萬歳は胡弓・鼓・三味線による賑やかな萬歳で、初期の万才もこれに倣って楽器伴奏を伴っていた。

初期の万才の芸人には、万才という分野を切り開いたパイオニアである玉子屋円辰や、砂川捨丸・中村春代のコンビなどがある。ただし当時の寄席演芸は落語が中心であり、万才は添え物的な立場に置かれていた。


その後、俄や、俄から転化し2人で落語を演じる形式の軽口噺、浪曲の要素が混ざり合って今の形式になった。大正末期には、吉本興業の芸人である横山エンタツ・花菱アチャコのコンビが、万才を会話だけの話芸「しゃべくり漫才」として成立させ、絶大な人気を博した。


昭和初期までは基本的に「萬才」「萬歳」の表記が使われることが多かったが、1933年(昭和8年)1月に吉本興業内に宣伝部が創設され、この宣伝部が発行した「吉本演藝通信」の中で「漫才」と表記を改称することが宣言されたことから、現在では当時同社の宣伝部門を統括していた橋本鐵彦(後の同社社長)を「漫才」の名付け親とするのが通説となっている。

しかしこの前年の1932年(昭和7年)3月に吉本興業が「吉本興業合名会社」として改組された際に、営業品目の一つとして「漫才」の表記が既に使われていること(なお、橋本の吉本興業入社は合名会社への改組後である)などから、「漫才」の名付け親は橋本ではなく、当時同社の総支配人だった林正之助であるとする説もある。[1]


エンタツ・アチャコ以降、漫才は急速に普及し、他のスター漫才師も生みだした。東京ではエンタツ・アチャコと懇意にしていた柳家金語楼が触発されて、一門の梧楼と緑朗に高座で掛け合いを演じさせ、これが今日の東京漫才の祖とされるリーガル千太・万吉に繋がった。一方、砂川捨丸・中村春代や東京の松鶴家千代若・千代菊など、お囃子を取り入れた古典的なスタイルを崩さなかった漫才師もいた。


戦後、漫才師たちは、相方の戦死・病死・消息不明などに見舞われる。吉本興業は映画会社へ転身を図り、ほとんどの専属芸人を解雇した。また、同社と専属契約していなかった漫才師たちは大阪に結集し、仕事の受注やマネージメントをする団之助芸能社を立ち上げた。松鶴家団之助が交通の便などがよかったために西成区山王で芸人を集めたため、山王は『芸人横丁』と呼ばれ地元の人に親しまれた。

その後、交通機関の発達で山王を離れての活動が容易になり、多くの芸人は千土地興行や新生プロダクション、上方芸能(いずれも後の松竹芸能)、そして演芸興行を再開した吉本興業と契約するようになった。

1950 – 1960年代が漫才の全盛期で、上方では中田ダイマル・ラケット、ミヤコ蝶々・南都雄二、かしまし娘、夢路いとし・喜味こいし、海原お浜・小浜、暁伸・ミスハワイ、タイヘイトリオ、鳳啓助・京唄子、人生幸朗・生恵幸子、漫画トリオなどが、東京では前述の千太・万吉のほか、内海突破・並木一路、コロムビア・トップ・ライト、大空ヒット・三空ますみ、宮田洋容・布地由起江、都上英二・東喜美江、内海桂子・好江、獅子てんや・瀬戸わんや、Wけんじなどがラジオ・テレビで活躍した。


1970年代においても、上方では中田カウス・ボタンやコメディNo.1、レツゴー三匹などが台頭して新たな笑いを築いていったが、東京はコントに笑いの主流が移ってしまい停滞気味になっていった。

1980年には、関西テレビの番組『花王名人劇場』や、フジテレビの番組『THE MANZAI』から漫才ブームが起こり、横山やすし・西川きよし、B&B、ザ・ぼんち、星セント・ルイス、ツービート、島田紳助・松本竜介、西川のりお・上方よしお、オール阪神・巨人などの中堅や若手漫才師が人気を集めた。彼らの中には現在でも芸能文化活動の第一線で活躍している者が多い。


漫才は寄席で行われる演芸として発達したが、マスメディアとの親和性にも優れており、ラジオ番組やテレビ番組でも多く披露されていった。

アメリカ、ドイツ、韓国、中国などの国々にも似たようなものがあるが、日本との文化的な違いから漫才のように空気を読んだノリツッコミやドツくのようなパフォーマンスは見られない。

漫才表現の様式

漫才は主に2名で演じられる話芸だが、3名以上のグループで演じられる場合もある。背景音楽が使用される場合もあるし、演者自身が楽器を演奏する場合もある。

衣装は、男性の場合、伝統的にはペアあるいはそれに類するスーツ着用がほとんどで、そのスーツが派手に原色のラメなどで彩られるものが多かった。

しかし、1980年代の漫才ブームの頃に若手として登場したお笑いタレント兼務の漫才師たちにより、その伝統は崩されていき、よりファッショナブルにあるいはラフに、カジュアルなストリートファッションのような衣装で演じられることが多くなっていった。

しかし中には、キャラ作りや自らのトレードマークの誇示のために片方もしくは双方が変わった衣装を着ることもある(若手時代のB&Bの島田洋七、タカアンドトシのタカ、NON STYLEの石田明、パンクブーブーの黒瀬純、ハライチの澤部佑、髭男爵、ザ・パンチのパンチ浜崎、えんにちのアイパー滝沢など)。
小道具は用いないか、用いたとしても点数はごく僅かである。

衣装・小道具に関しての制約は少ない。

漫才 ボケとツッコミ

2名の演者は、ボケ役とツッコミ役と呼ばれる二つの役割に分けることができる。

ボケ役は話題の中で面白い事を言うことが期待される役割である。話題の中に明らかな間違いや勘違いなどを織り込んで笑いを誘う所作を行ったり、冗談などを主に言う。

一方、その相方は、ボケ役の間違いを素早く指摘し、笑いどころを観客に提示する役割を担う。

ボケ役の頭を平手や軽い道具で叩いたり胸の辺りを手の甲で叩いて指摘する事が多い。この役割はツッコミと呼ばれる。

もともとボケ役は、そのとぼける行為によって笑いを誘うことが多かったことからとぼけ役と呼称されていた。

芸席において紹介のつど「つっこみ(役)・とぼけ(役)」と称されていたことが、後に音だけで「つっこみ(役)とぼけ(役)」→「つっこみ(役)と、ぼけ(役)」のように転じたことから、現在のように「つっこみ(役)・ぼけ(役)」と称されている。

『大辞泉』によれば、ツッコミは「漫才で、ぼけに対して、主に話の筋を進める役」とされているが、実際には必ずしもそうとは限らない。ボケ役が話の進行役を担当する漫才師も少なくない。

またその役割分担も必ずしも固定的ではなく、達者とされるコンビほど、流れによって自然にボケとツッコミが入れ替わる展開を用いる。そのため、ボケとツッコミは厳密には、固定化された役割とは限らず、やり取りの様を概念化したものだと考えるのが妥当である。

なお、ツッコミ役が進行する漫才師は中川家、昭和のいる・こいる、夢路いとし・喜味こいし、NON STYLE等がいる。

逆にビッキーズ、宮川大助・花子、大木こだま・ひびき、ナイツ等はボケ役が進行する。

役割分担が固定的ではない漫才師には、中田ダイマル・ラケット、横山やすし・西川きよし、中田カウス・ボタン、オール阪神・巨人、トミーズ、おかけんた・ゆうたなどが該当する。前述のようにボケとツッコミの役割分担がない漫才は過去には少なからず見られたが、師弟制度が廃れ養成学校世代(お笑い第三世代以降)が台頭してからは、大半の漫才コンビがボケとツッコミの役割分担が明確なスタイルの漫才を演じている。

また、数は少ないが、双方ボケ・ツッコミ(笑い飯)、またツッコミがなく相方のボケにもう一方が納得したり感心しながら進行するボケと便乗ボケの組み合わせ(双方ボケの亜種)というスタイルの漫才(シャンプーハット、POISON GIRL BAND、ハライチ)を特色とするコンビも存在する。

漫才 ツッコミ

漫才 ノリツッコミ

ボケ役に対し、ツッコミ役が口を挟む行為を「ツッコミを入れる」と言う。ツッコミを入れるタイミングそのものが、観客の笑いを誘う場合も少なくない。

また、ツッコミが入ることにより、ボケ役が進行する話題に区切りを与え、構成上の小気味よいリズムを生み出す効果もある。

即座にツッコミを入れず、ツッコミ役がボケを更に広げた後にツッコミを入れる「ノリツッコミ」と呼ばれるものも存在するが、これは実質的にツッコミが笑いを誘う役割を担うため、本来のツッコミとは異なる。

漫才 司会的ないじり

ボケが華やかに見られるために弊害としてツッコミが地味に映るためにボケばかりに仕事が集中することが起こった。
  
特に、1980年代の漫才ブームで頭角をあらわした漫才師達は、『オレたちひょうきん族』に代表されるようにボケばかりが注目を浴び、ツッコミは食いっぱぐれ、ボケに食わされる状況に追い込まれた。

同番組内のうなずきトリオは、地味なツッコミをまとめて売り込む苦肉の策でもあった。[2]1990年代になると、ダウンタウンの浜田雅功の登場でツッコミは番組を取り仕切る司会を任されるようになり、爆笑問題の田中裕二等、ツッコミがいじりの対象として登場するようになった。

漫才 客いじり

タレントだけではなくお客もいじる技術。

主な漫才の種類

しゃべくり漫才

コントのようなストーリー展開にならないオーソドックスな漫才。正統派漫才とも言われる。

コントに入ってもコンビの片方のみが役に入りきる場合や、同じシチュエーションを繰り返すことが多い。当てはまるのは中川家、ますだおかだ、タカアンドトシ、品川庄司、スピードワゴンなど。

近年ではしゃべくり漫才に自らのスタイルを取り入れたものもいる。その例はスローテンポ漫才のおぎやはぎ、ケンカ漫才のブラックマヨネーズ、妄想漫才のチュートリアル、Wボケ漫才の笑い飯、ズレ漫才のオードリー、Wツッコミのマシンガンズ、ノリボケ漫才のハライチなど。

コント漫才

漫才の技術をベースにしつつもボケ、ツッコミ共に役になりきりストーリー展開になるコントのような漫才。漫才のネタをコントとして使用する場合もある。当てはまるのはアンタッチャブル、フットボールアワー、トータルテンボス、サンドウィッチマン、麒麟など

主な漫才師

横山エンタツ・花菱アチャコ
夢路いとし・喜味こいし
レツゴー三匹(じゅん、正児、長作)
横山やすし・西川きよし(横山やすし、西川きよし)
中田カウス・ボタン(中田カウス、中田ボタン)
オール阪神・巨人(オール阪神、オール巨人)
海原はるか・かなた(海原はるか、海原かなた)
西川のりお・上方よしお(西川のりお、上方よしお)
ツービート(ビートたけし、ビートきよし)
ダウンタウン(松本人志、浜田雅功)
爆笑問題(太田光、田中裕二)
くりぃむしちゅー(上田晋也、有田哲平)
キャイ〜ン(天野ひろゆき、ウド鈴木)
博多華丸・大吉(博多華丸、博多大吉)
品川庄司(品川祐、庄司智春)
タカアンドトシ(タカ、トシ)
おぎやはぎ(小木博明、矢作兼)
ダイノジ(大地洋輔、大谷ノブ彦)
ハリガネロック(ユウキロック、大上邦博)
アメリカザリガニ(柳原哲也、平井善之)
トータルテンボス(大村朋宏、藤田憲右)
スピードワゴン(井戸田潤、小沢一敬)
ロザン(菅広文、宇治原史規)
麒麟(川島明、田村裕)
キングコング(西野亮廣、梶原雄太)
南海キャンディーズ(山ちゃん、しずちゃん)
ザブングル(松尾陽介、加藤歩)
オードリー(若林正恭、春日俊彰)
キャン×キャン(長浜之人、玉城俊幸)
磁石(佐々木優介、永沢たかし)
タイムマシーン3号(山本浩司、関太)
ハマカーン(浜谷健司、神田伸一郎)
流れ星(ちゅうえい、瀧上伸一郎)
U字工事(福田薫、益子卓郎)
ナイツ(塙宣之、土屋伸之)
ハライチ(岩井勇気、澤部佑)
スリムクラブ(真栄田賢、内間政成)
M-1グランプリチャンピオン
中川家(剛、礼二)
ますだおかだ(増田英彦、岡田圭右)
フットボールアワー(岩尾望、後藤輝基)
アンタッチャブル(山崎弘也、柴田英嗣)
ブラックマヨネーズ(吉田敬、小杉竜一)
チュートリアル(徳井義実、福田充徳)
サンドウィッチマン(伊達みきお、富澤たけし)
NON STYLE(石田明、井上裕介)
パンクブーブー(佐藤哲夫、黒瀬純)
笑い飯(西田幸治、哲夫)
など。

漫才 脚注

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^ 『上方芸能・笑いの放送史』(澤田隆治著、日本放送出版協会、1994年(平成6年))pp.30 – 33
^ 『カノッサの屈辱』お笑いタレントの回より
国の漫才