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阿井莉沙にロンドンハーツ ポン村上が熱愛告白!?

阿井莉沙のぐだぐだトーク

なにも考えずに撮影を開始しました。 ノープランですので阿井莉沙がよくわからない話を延々としています。 ぜひぜひ最後までみてください。

ロンドンハーツ ポン村上 阿井莉沙 告白

本日28日放送のテレビ朝日「ローンドンハーツ」で、お笑いコンビ「フルーツポンチ」 のポン村上さんこと村上健志さんが、元アイドルの阿井莉沙さんに 番組中に「好きです、付き合ってください!」と告白していました。(*^。^*)まあ、本気かウソか知りませんが、平和ボケしてる感じで、良いですね。ハハハハハハハッハ!

言葉のくすり 渥美清(寅さん)ってどんな人?

渥美清ってどんな人?

本名 田所 康雄
たどころ やすお
別名 寅さん、風天(俳号)
生年月日 1928年3月10日
没年月日 1996年8月4日(満68歳没)
出生地 日本・東京府東京市下谷区
(現:東京都台東区)
職業 俳優、コメディアン
ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台
活動期間 1951年 – 1996年
配偶者 あり
家族 父:田所友次郎
母:田所タツ
兄:田所健一郎
主な作品
映画
『拝啓天皇陛下様』
『男はつらいよ』シリーズ(全48作)
『八つ墓村』
『幸福の黄色いハンカチ』
『キネマの天地』他
テレビドラマ
『渥美清の泣いてたまるか』
『男はつらいよ』他
受賞
・1988年 紫綬褒章
・1996年 国民栄誉賞

小林 信彦

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渥美 清(あつみ きよし、1928年3月10日 – 1996年8月4日)は、日本の俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。愛称は、寅さん、風天(俳号)

渥美清 来歴・人物

渥美清の生涯

1928年(昭和3年)3月10日に、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。

1934年11月、上野の板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。

欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。
1940年に板橋城山高等小学校に入学。第二次世界大戦中の1942年に巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。偶然にもこの日は渥美の17歳の誕生日であった。

卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。

1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。

中央大学経済学部入学後、船乗りを志して退学したが母親に猛反対されたため断念。

知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。

なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。”渥美”は愛知県の渥美半島から採ったとされる。

1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。
1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
1954年、肺結核で右肺を摘出しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。

1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。
1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。

1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。
同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。

当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎、丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。

1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。

1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(喜劇急行列車、喜劇団体列車、喜劇初詣列車)(1967年~1968年)なども有名である。

1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到した。
1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。

1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。
1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。

1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。

映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。特に1977年『八つ墓村』が松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことは大きな岐路となる。

1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど~昭和のこころ 古賀政男~』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるにはいたらなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。

1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章受章。
その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった、遺作は亡くなる直前まで出演した48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。

後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。

ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。

また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。49作目は秋からクランクインが予定されていた。田中裕子がマドンナ役の予定だった。

病気については1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。
1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば、病院で癌の手術が手遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。また同年6月に49作の映画化の件で話し合い、肉を食べ撮影に意欲を燃やしていたとのことである。

1996年(平成8年)8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にてこの世を去る。68歳没。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の火葬場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。

そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が
5年前に渥美さんの病気を知り、予断を許さないのは知っていました。体の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。この時、この陽気な男が、映画から手を引く日も近いと思っていました。そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。医師から、正月遺作となった映画に出演できたのは、奇跡といわれました。ああ、悪いことをしました。後悔しています。つらい思いをさせてすいませんでした。7月に入院して、肺の手術をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出来ず、うつむいたままと聞きました。何故そんなに苦しめたのか。27年間、映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。スタッフも幸せでした。心からお礼を申し上げます。

という弔辞を読み上げた。

世間では、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。

妻は熱心なカトリック信徒で、彼自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事が明らかになっている。
渥美は亡くなるまで芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。

渥美清 経歴についての異説

渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。

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巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。

渥美清 実像

「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は自身公私混同を非常に嫌い、他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で、撮影協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。

芸能界の関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友であった黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている[1]。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという[2]。

プライベートでの交流が多かった数少ない芸能人として笹野高史、柄本明がいる(笹野と柄本は自由劇場で同僚でもあった)。2人とも「男はつらいよ」シリーズの共演者であった。芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督に笹野を紹介したのは渥美自身であった。

渥美は藤山寛美を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットには「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で見るだけで、楽屋には寄らずに帰れる。帰る道すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている。」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「横丁のトラ公、まだ帰ってこんのか。」と言うアドリブを発していた。[3]

原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることも多かった。

一方で非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていた。しかし「寅さん」とは、まったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らには、ほとんど気づかれなかったという。
山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2,3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している[4]。

家族構成は妻と子供2人で、長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった[5]。結婚式は親族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表する事はなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。結婚まで秘密にしていたため、没する数年前でも渥美が独身と思っていた人が多かったようである。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は『新珠三千代さんごめんなさい。』の迷コメントを出した。

黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。ちなみにその際それを報道したスポーツ新聞の紙面には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をしていた時の写真が掲載された。これは当時マスコミにはその写真しかなかったためである。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席したり、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。また森繁久彌は、渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。

2006年9月4日にNHKプレミアム10で放送された『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。

なお永六輔とは、少年時代から旧知の仲であり、永六輔によると渥美は永も所属していた不良グループのボスであったという。更に永の言葉によると、渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導された事があった。その時の刑事に、「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。

山田洋次系以外のスタッフでは、脚本家鈴木尚之が節目節目で招かれており、信頼が厚かったことを伺わせる。ただし、渥美自身が企画し鈴木が執筆した、1972
年春公開の『あゝ声なき友』が不振に終わり、厳格な今井正監督の現場になじめなかったこともあって、これを境に渥美は山田作品に専心するような形となる。その5年後の『八つ墓村』が記録的大ヒットにもかかわらず、松竹と角川書店(角川春樹)の確執からシリーズ化できなかったことがこの流れを決定づけた。

脚本家早坂暁は大学時代に銭湯で渥美清と知り合い、何度もプライベート旅行に行くなど親友となった。渥美は、早坂との旅行を大変楽しみにしており、渥美の死後発見された晩年の手帳には「……家族で旅行に行こう。ギョウさん(早坂暁の暁を音読みしたもの)も一緒に……」と綴ってあった。 2006年に放送された「渥美清の肖像~知られざる役者人生~」によると、早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられなかったことを危惧し、渥美主演の作品を数作企画していたが、実現しなかったそうである。 しかし、渥美には、初期のテレビドラマ「泣いてたまるか」や、上記「土曜ワイド劇場」の第1回作品の「田舎刑事」シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。

長男田所健太郎は、ニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていた。後に渥美清が彼の父親として来社したため、社内は騒然となった[6]。
晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年)に詳しく紹介されている。

渥美清 主な出演

渥美清 映画

おトラさん大繁盛(1958年)
南の島に雪が降る(1961年)
投資令嬢(1961年)
大江戸評判記 美男の顔役(1962年)
あいつばかりが何故もてる(1962年)
若き日の次郎長 東海道のつむじ風(1962年)
おかしな奴(1963年)
つむじ風(1963年)
拝啓天皇陛下様(1963年)
無宿人別帳(1963年)市兵衛
太平洋の翼(1963年)丹下一飛曹
散歩する霊柩車(1964年)
馬鹿まるだし(1964年)
続・拝啓天皇陛下様(1964年)
拝啓総理大臣様(1964年)
風来忍法帖(1965年)
ブワナ・トシの歌(1965年)
沓掛時次郎 遊侠一匹(1966年)
喜劇急行列車(1967年)
喜劇団体列車(1967年)
父子草(1967年)
喜劇初詣列車(1968年)
燃えつきた地図(1968年)
白昼堂々(1968年)
スクラップ集団(1968年)
喜劇 爬虫類(1968年)
でっかいでっかい野郎(1969年)
喜劇 女は度胸(1969年)
男はつらいよシリーズ(1969年 – 95年、97年、全49作) – 車寅次郎
トラ・トラ・トラ!(1970年)※日本公開版のみ
家族(1970年)
喜劇 男は愛嬌(1970年)
あゝ声なき友(1972年)
故郷(1972年)
砂の器(1974年)ひかり座の支配人
ビューティフル・ピープル ゆかいな仲間(1974年)日本語版ナレーター
友情(1975年)
同胞(1975年)
八つ墓村(1977年)
幸福の黄色いハンカチ(1977年)渡辺係長
皇帝のいない八月(1978年)
遙かなる山の呼び声(1980年)
キネマの天地(1986年)喜八
二十四の瞳(1987年)ナレーター
ダウンタウンヒーローズ(1988年)ナレーター
学校(1993年)八百屋の親父

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渥美清 テレビ

第14回NHK紅白歌合戦(1963年) 応援ゲスト
四重奏(1964年、日本テレビ)
渥美清の泣いてたまるか
大和魂くん
東芝日曜劇場(多数出演)
人形佐七捕物帳(1965年、NHK)
おんなの劇場 出雲の女(1969年、フジテレビ)
おれの義姉さん(1970年、フジテレビ)
こんな男でよかったら(1973年、よみうりテレビ)
ヨイショ(1974年6月 – 11月、TBS)
天皇の料理番(1980年10月 – 1981年3月) ナレーション
田舎刑事 (1977年、テレビ朝日)
「幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜」(古賀政男役、1979年)
木曜ゴールデンドラマ「花嫁の父」(1981年)
花へんろシリーズ(1985年 – 1988年) ナレーション

渥美清 ラジオ

『渥美清 ローマンス劇場』
『渥美清の男性諸君』
いずれも「一慶・美雄の『夜はともだち』」内包番組(TBSラジオ/1976年~1978年)

渥美清 CM

ハナマルキ
エーザイ
ブリヂストン 新・回転理論技術「DONUTS(ドーナツ)」 専属キャラクター[7]
ロート製薬 「パンシロン」[8]
サントリー「サントリー生ビール ナマ樽」
中外製薬「バルサン」
いすゞ自動車 「エルフ」
日本アイ・ビー・エム 「IBMマルチステーション5550」
日本テレコム
朝日新聞 [9]
パイオニア「DVDレコーダー」(没後に製作)

渥美清 シングル

泣いてたまるか(TBS連続テレビドラマ「泣いてたまるか」主題歌)(B面:若いぼくたち/ミュージカル・アカデミー)(1966年5月10日)
オー大和魂(TBS連続テレビドラマ「大和魂くん」主題歌)(B面:雨の降る日は天気が悪い)(1968年10月)
男はつらいよ(フジテレビ連続テレビドラマ「男はつらいよ」主題歌、松竹映画「男はつらいよ」主題歌)(B面:チンガラホケキョーの唄)(1970年2月10日)
ごめんくださいお訪ねします(松竹映画「あゝ声なき友」主題歌)(B面:あゝ声なき友)(1972年3月25日)
さくらのバラード(歌:倍賞千恵子)(B面:寅さんの子守唄)(1972年4月)
こんな男でよかったら(B面:ひとは誰でも)(よみうりテレビドラマ「こんな男でよかったら」)(1973年4月5日)
いつかはきっと(掛け声:山田パンダ)(TBSテレビドラマ「ヨイショ」主題歌)(B面:遠くへ行きたい)(1974年8月25日)
寅さん音頭(B面:赤とんぼ)(1975年7月5日)
祭りのあと(B面:駅弁唱歌)(1975年9月5日)
渥美清の啖呵売I(B面:渥美清の啖呵売りⅡ)(1976年6月25日)
浅草日記(B面:すかんぽの唄)(1977年6月25日)
今日はこれでおしまい(1977年10月25日)
DISCO・翔んでる寅さん(B面:寅さん音頭)(1979年7月25日)

渥美清 アルバム

渥美清が歌う哀愁の日本軍歌集(1968年12月5日)
噫々戦友の詩(きけわだつみのこえ)より(1971年)
男はつらいよフーテンの寅と発します!(1971年11月)
男はつらいよ名場面集(第一集)
男はつらいよ名場面集(第二集)
男はつらいよ名場面集(第三集)(1974年)
渥美清ベストヒット28(1976年)

渥美清 著書

『きょうも涙の日が落ちる 渥美清のフーテン人生論』 (展望社、2003年)
『渥美清わがフーテン人生』「サンデー毎日」編集部編 (毎日新聞社、1996年)
『赤とんぼ 渥美清句集』 森英介編 (本阿弥書店、2009年)

渥美清 参考文献

関敬六 『さらば友よ』(ザ・マサダ、1996年)
渥美清の肘突き 人生ほど素敵なショーはない (福田陽一郎、岩波書店)
おかしな男 渥美清(小林信彦、新潮文庫)
知られざる渥美清(大下英治、廣済堂文庫)
渥美清 浅草・話芸・寅さん(堀切直人、晶文社)
拝啓渥美清様(読売新聞社会部、中公文庫)
渥美清の伝言(NHK同制作班編 KTC中央出版)
渥美清晩節、その愛と死 (篠原靖治、祥伝社)

渥美清 親族

田所健太郎
長男。株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイト、(有)チェリーベルがある 。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。
山岡和美
元ニッポン放送アナウンサー、長男の妻。

渥美清 渥美清を演じた、ものまねをした人物

南原清隆-ドラマ「渥美清物語」で主演。
原一平-寅さんのものまねは、渥美本人も生前から認めていた、唯一の渥美清公認ものまね芸人。寅さんのものまねをする際に着用する衣装は渥美本人が映画で実際に使っていたのを譲り受けた物である。
佐々木つとむ-1970年代に人気を博した。
フランクさな寅(フランクさな寅ブログ) 地元ですら知る人ぞ知る「広島の寅さん」。TSS「親子笑劇場電太郎一家」(ローカルミニドラマ。既に終了)にドラ猫のドラ役で出演していた。
野口陽一 山田洋次監督公認。
山口智充(「ワンナイR&R」にて)

渥美清 脚注

^ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想より)
^ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想より)
^ 小林信彦「おかしな男 渥美清」
^ 「男はつらいよ DVD BOX」、監督の特典インタビューにて(2008年収録)
^ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想)
^ 余談だがギタリスト布袋寅泰が同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口であった際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、部屋の隅にでも飾ってやってください。」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという(布袋のブログの記述による)。
^ 1995年から逝去後の1997年まで、「ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。またこのCMは放映時期の季節に合わせて、渥美の服装と背景が変化した。
^ 幼少時代の沢田聖子と共演(父親役の渥美清が沢田を肩車するシーン)したバージョンがあった。ちなみに渥美は前出のブリヂストンのCMと同じく逝去直前に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していたことがある。
^ CMのキャッチコピーは「歴史は、あっちこっちでつくられる。」。コピーライターの神様と称される仲畑貴志の手によるものである。

一発ギャグ

一発ギャグ

一発ギャグ(いっぱつギャグ)とは、芸のひとつで、短時間内の言動や仕草により見る人の笑いを誘うもの。

一発ギャグ 概要

主にお笑い芸人が行う。

数秒から十数秒という短い時間における発言(内容および口調)や動作の奇怪さでボケるもの、自分以外の奇怪な人物が近くにいる・もしくは奇怪な状況に自分が置かれていると設定してこれに突っ込んだりさらにボケるもの、ダジャレ、モノマネの変種など多岐に渡る。

作成手段によって分類した場合、披露者が事前に用意したいわゆる「持ちネタ」とアドリブによってその場で作るものの二種に分かれる。笑いにつながらない(ウケない)こともままあるが、作成・披露が比較的手軽なため芸人たちは頻繁に用い、また披露の機会を与えられる(=「振られる」)。

一発ギャグの得意な芸人はしばしばそのギャグをもって一般に認知されはじめ、また時に一発ギャグがもとで人気が急上昇する芸人もある(=ブレイクする)ため、印象を左右する意味で芸人にとって一発ギャグの存在意義は非常に大きい。

ギャグと一発ギャグの関係

一発ギャグは「ギャグ」のなかでも、より瞬間的ならびに爆発的な笑いの喚起を狙うものである。深い要素を練り込み時間差でじわじわと笑わせるようなものは少ない。(思い出し笑いを除く)

関西地方での「ギャグ」という言葉の解釈は、関東地方(日本標準)とは少々意味合いが違ってくる。関西地方では「一発ギャグ」のことを「ギャグ」と呼び、関東(日本標準)における「ネタ」のことを「ギャグ」と表現する。

この差異について、長らく関西地方の人々は気がつかない、もしくは戸惑いつつ受容できずにいたが、現在では関西出身の芸人および一般人は、関東つまりは全国進出の際は、各自が言葉の置換をすることで補っている。

代表的な例としては、現代の一発ギャグの名手として知られ、関西地方出身であるFUJIWARAの原西孝幸のキャッチコピーは、「ギャグを一兆個持っている」であるが、この言葉を関西地方文化圏の人間は素直に理解できるが、関東地方(日本標準)の理解からは『え?一兆個の”一発ギャグ”を持っている、じゃないの?』となる。[1]

一発ギャグで有名な人物

原西孝幸(FUJIWARA)
ワッキー(ペナルティ)
岡田圭右(ますだおかだ)
日村勇紀(バナナマン)
塚地武雅(ドランクドラゴン)
八木真澄(サバンナ)
熊谷岳大(ガリットチュウ)
金成公信(ハローバイバイ)
渡辺あつむ(ジャリズム)
ちゅうえい(流れ星)
多田健二(COWCOW)
大地洋輔(ダイノジ)
ハブ(Bコース)
阿部浩貴(アップダウン)
大川知英(ニブンノゴ!)
レイザーラモンHG(レイザーラモン)
春日俊彰(オードリー)
鈴木Q太郎(ハイキングウォーキング)
猫ひろし
あべこうじ
狩野英孝
小島よしお
エド・はるみ
山崎邦正
村越周司
村上ショージ

一発ギャグ 脚注

^ 明石家さんまが原西氏に対して発言した「原西、お前のギャグはホンマに流行らんなぁ」という言葉も、関東地方(日本標準)の解釈では「お前の一発ギャグは」となる。

オヤジギャグ

オヤジギャグ

オヤジギャグ(親父ギャグ)とは、主に中高年層の男性が頻繁に使う、駄洒落や地口の要素をふんだんに含んだ安直なギャグのことである。

1980年代までは一般によく使われ、あのねのねによって「赤とんぼの唄」、「魚屋のおっさんの唄」をはじめ数々のコミックソングとしてヒットするなど肯定的に受け取られていたが、近年そうした事情を知らない世代の思春期以上のギャグに辟易した若年層によって否定的なニュアンスで使われるようになった。

1990年前半、大阪の府立高校の生徒らが使い始めた[要出典]。これは、団塊の世代が中年となる時期と重なるが、それ以前から似たような内容のギャグは存在している。

中高年男性の増加によりオヤジギャグを聞く機会が増えたこともあるが、その受け手である若者(1980年代半ばの若者は新人類と呼ばれている)との価値観の相違から、「中年男性のギャグはつまらない」という考え方が増え、そういったギャグを総称して「オヤジギャグ」と呼称するようになったと考えられている。

オヤジギャグ 傾向

オヤジギャグは、単純でわかりやすく、安直なギャグであればあまりにも安直であればあるほど、意味がわかるのに笑えないというジレンマが聞き手に苦痛を与える場合がある。

思春期以前の特に男児はオヤジギャグを過剰なまでに好む傾向がある。つまらないギャグをオヤジギャグとくくり、嫌悪する傾向はオリジナリティのなさや安直さを嫌う若者に顕著で、特に10歳代から20歳代前半の若者はオヤジギャグに対して拒否反応を示すこともある。

特に嫌がられる特徴としては、
安直である
同じギャグを何度も言う
下世話である
の三点が最も指摘される。

このうち、3の場合は倫理上問題のある場合があるが、1、2についてはそういったギャグが通用しなくなった時代を嘆く声もある。

もっとも、発する本人もその多くはくだらないことを言うことで親密度を増そうとの意図を持っての行動であり、ギャグ自体が面白くないことは自覚していることも少なくない。

だが、思春期以上の若年層は、ギャグがただ潤滑油としてのギャグであるだけでは満足せず、その内容によって笑えることまでを期待している場合が多い。そのような若者にオヤジギャグを連発しても、ギャグの効果に対する期待のズレからかえって溝を深める結果に終わる。


話し手の人柄さえ認められていれば、多くの場合は好意的に迎えられるが、度を越したオヤジギャグは反感を買うこともある。話し手の思う許容範囲と聞き手の許容範囲は多くの場合食い違っており、話し手がまだ大丈夫だ、と思っていても聞き手はうんざりしていることもあるからだ。

また、オヤジギャグを言うおやじは概して夫婦仲が良いという傾向も見られる[要出典]。実は、オヤジギャグの源泉はおやじの家庭にあり、主におやじがその妻に対して発しているジョークがすなわち、オヤジギャグのルーツであったりする。

そのギャグを聞いた妻は(夫婦仲がいいので)コロコロとよく笑ったりするため、「これはウケた!」とか「オレのギャグもまんざらじゃあない!」などという誤解が生じ、オヤジギャグにさらに拍車がかかってしまう。そのため、おやじはそのギャグがたとえ会社では「ウケ」なかったとしても、家庭に戻るとそれを聞いて笑ってくれる妻がいるがゆえに、決してへこたれることなく、恒久的に自信満々でオヤジギャグを言い放ち続けることが可能となってしまう。

オヤジギャグ 関連調査

2005年1月3日付の朝日新聞によると、日本人の76%がオヤジギャグに寛容な態度を見せている。

代表的なオヤジギャグ

「なに、切痔になったんやて? そら、ひさんや大黒堂」
バッタがトイレで踏ん張った
さいならっきょ
こんばん脇毛
ありがとうがらし
すみま扇風機
こんにちわんこ蕎麦
布団が吹っ飛んだ
そんな洒落、いいなシャレ
今年の残暑はすごいざんしょ
アルミ缶の上にあるみかん
ただいマイトネリウムの元素記号はMt!
おかえリチウムの元素記号はLi!
(椅子に座るときなど)「よっこいしょ ういち」(横井庄一とのダジャレ)
(食事を終えた後に)「美味しかったー(大石勝った)!吉良負けたー!」(忠臣蔵を絡めた駄洒落)
(親戚の太った子どもを見た時など)「将来はお相撲さんだなこりゃ!」
(また、子どもが塩辛などのつまみ系の物を食べている時)「この子は将来大酒のみになるぞ!」
(そんなことはありえないの意)「そんなのタブランだ。」(田淵のランニングホームラン)
(遠足の集合時間に教師が)「みんないるか?……いない人、手を挙げて!」
大袈裟な桁を使う 例:「はい!千円お預かりでお釣り八百万円!」(関西地方で多くみられる)
何でも「夜の」を付ける 例:「趣味は野球です」「夜の野球の方はどうだい? ホームラン王かい?」(セクハラでもある)
(羊羹を食べる前に)「これどうやって食べるか知ってる?よう噛んで食べるんやで!」
(これらのギャグが受けなかった場合に)「違うか!」(受ける受けないとは無関係に、ギャグの結びとして使われる場合も多い)

お笑いタレント

お笑いタレント

お笑いタレント(おわらいタレント)は、主にテレビ番組において面白いことを言うなどして視聴者等の笑いをとる役割を担うタレント。

お笑いタレントの歴史

喜劇役者・コメディアン、落語家・漫才師/漫談師・コント俳優・声帯/形態模写芸人・奇術師・コミックバンドメンバー、歌手ダウンタウンなどの芸域のどれかに属する。

日本国内のテレビの普及に伴い、もともと舞台をはじめとするさまざまな場所でさまざまな仕方で活動してきた人々がテレビのバラエティ番組に活動の比重を移すにつれ、彼らを総称する呼び方が必要になったため生まれた言い方である。
したがって、お笑い芸人の走りはテレビ放送が始まった当初から存在した。

当時はほとんどが漫才師と呼ばれる2人組で漫才をしたり、数人のグループでコントを行ったりして、笑いを取っていた。関東では占領下でジャズ・バンドを結成していたバンドマンたちがコミック・バンドに転じてさらにテレビでコントを披露するようになったり(ハナ肇とクレージーキャッツ、ザ・ドリフターズ等)、浅草を地盤とする芸人たちがコントを中心に活躍しテレビにも進出していった(コント55号、ツービート等)。

1970年代ごろになると関西の吉本新喜劇や松竹新喜劇などで、藤山寛美、間寛平のように大舞台で演技する多数の喜劇役者が一世を風靡した。のちに、これらがお笑い芸人として活躍することになる。漫才界ではいとし・こいしなどがテレビに登場するなど、お笑いを取る芸人として活躍する。

1980年代中盤には漫才ブームが発生した。バラエティ番組「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)では、複数のコントから構成されるため、出演する芸人がベースとする演芸の領域を超える内容となっていた。必然的にこれらの領域は(特に漫才/漫談とコントの間で)ボーダーレス化し、やがて一括して「お笑いタレント」「お笑い芸人」 という言葉で総称されるようになった。

「ひょうきん族」以降、お笑いタレントの主な活動拠点は演芸場からテレビに移っており、その結果、持ちネタや持ち芸を披露する機会は少なくなり、本来の職分である芸人としての彼ら自身と、一般視聴者との中間的存在であることが求められるようになった。 この過程で漫才師出身のビートたけしや形態模写出身の明石家さんま、タモリのように、本来の芸域の痕跡を喪失したお笑いタレントも見られるようになった。


お笑いタレントというカテゴリーが確立して以降、NSCなどお笑い芸人養成学校が開校したり、インディーズ出身のお笑い芸人が出現し、隆盛するにつれ師弟制度が衰退し、先輩芸人に対する「師匠」「兄さん・姉さん」という呼称は一部のごく親しい人間しか用いない傾向にあり「○○さん」と呼ばれることが多くなった。

また、それまでは先輩・後輩関係は年齢に関係なく芸歴を基準とされており、後輩は先輩に対して敬語を使うことが義務づけられる風潮があったが、プロダクションやメディアの多様化によって現在はある程度緩和されている。


吉本興業、松竹芸能などの大手は今でも芸歴での基準を継続させており、養成所へ同時期に入っても一日でもデビューが早かったら先輩になり、当然敬語を使わないといけない。但し他事務所の同い年の芸人に対しては、芸歴が浅くても当人同士が良ければ相応の対応も見られる。

逆にバラエティ番組などで、司会者や出演者が漫才や落語の大物芸人に対して、敬称として「師匠」を付けることの方が一般的となっている(こういう人物の場合は往々にして志願して来た弟子がいる)。


お笑いタレント 概要

バラエティ番組におけるお笑いタレントは、司会者やそのアシスタント、レポーター、クイズの解答者などの立場で出演し、面白いことを言ったり、なにかの行為をする際に失敗してみせたりすることで、笑いを誘発する。これにより視聴者に対し、番組進行のテンポ的起伏、番組で扱う事物への客観性、番組内容への感情移入のしやすさなどを提供する。

バラエティ番組に多く出演し、それなりの芸歴になるとネタをしなくなる傾向があり、劇場付きの芸人、若手はネタ見せをするが、テレビが活動の中心になると年末年始の特番か、笑点の演芸コーナー程度になる。だが、ベテランとなっても定期的にライブを行ったり、テレビ番組などでネタを披露したり、作品をリリースすることに拘るお笑いタレントもいる(爆笑問題、さまぁ〜ずなど)。

お笑いタレントを目指す者は数多くいるが、デビューできるのはほんの一握り程の者だけであり、デビューしてもテレビ番組に出演できるお笑いタレントは少数の厳しい世界である為、デビューして出世、成功したお笑いタレントは、ほんの一握りである。

この為、いい思いをしてきた大御所芸人でさえ弟子入り志願者に対し上記の理由を挙げ丁重に断る場合が多いとされている。ビートたけしはかつて「俺はどんなに見込みや才能がない奴でも本人が志願すれば一定期間面倒を見てきた。世間はボランティアなんていうが俺ほどのボランティアはいないな」という趣旨の文章を「週刊ポスト」の連載や著書で書いていたが、たけしのような例は稀であると思われる。

売れても休みもほとんどもらえず、若手だけでなくそれなりに顔が売れている中堅芸人でさえも休暇を請求するとマネージャーなどにお叱りを受ける場合もある。

また過労やアクシデントで負傷しても大手企業のサラリーマンのような潤沢な福利厚生は受けられず会社によっては自己負担になる場合もある(雇用関係がないので社会保険もなく、よって国民健保)。

山本圭一がかつてラジオで過労で倒れた時、会社から一銭も治療費がでなかったと嘆いていた。加えて、芸能人という職業の性格上、定期健康診断も行わない事務所も多く過密スケジュールの中での体調管理は至難である。実際に芸人の中には中島忠幸、村田渚など早世した者も少なくない。


お笑いタレントとして夢破れてから放送作家に転身する者も多い。その場合芸人同士の繋がりから、仕事をもらう(いわゆる座付き作家)。

また、世界のナベアツのように、芸人と放送作家の二足のわらじで活動するものもいる。

デビューするには、NSC等の芸人養成学校、専門学校に入学、師匠と呼ばれる先輩に師事し弟子入り、面接によるオーディション、スカウトはあるもののネタ見せで認められてのもので、外見がおかしい、顔が面白い等の理由で路上スカウトを受けたという例は無い。いわゆる受け身の性格や、指示待ち人間は向いていないとされている。


お笑い芸人のコンビ仲は、競争意識の高さから「隣の相方が一番のライバル」と呼ばれ、昔から『仲が悪くないと、売れない。』と言われ、舞台では丁々発止のやり取りをするコンビも楽屋では雑談もせず、他の芸人の楽屋に入り浸りというのも珍しくない。

しかし2000年代辺りからは、仲がよいコンビも登場している。(さまぁ~ず、おぎやはぎ等)
近年のお笑い芸人の志向も変わり、おぎやはぎによれば昔は司会者や冠番組を持とうと殺気に満ちていたり、ライバル意識丸出しの芸人ばかりだったが、最近では2番手や所謂ひな壇芸人志望で、丸く収め安定志向と言う芸人が多いそうである。[1]


お笑いタレント 司会業

近年、お笑い芸人の司会業への進出が目覚しく、お笑いブームになると明石家さんま(公式には落語家なのだが高座に上がった事はほとんどない)、島田紳助、山田邦子などの大御所ばかりではなく、タカアンドトシやオリエンタルラジオなどの若手もメインの番組で司会を務める事が多い。

これをフジテレビジョン編成制作局バラエティ制作センター部長の吉田正樹は「お笑いブーム以降、テレビ局にお笑いのテイストが欲しいと考えられた」と語っており、加えて「90年代に吉本興業が本格的に東京進出してから、芸人がMCを務めるという関西の文化が輸入されたのではないか。」と吉本興業の存在が深く関っていると述べている。

一方、芸人は、より上を狙う意味で番組を仕切る司会者を目指す人が多い。制作者側と芸人本人のニーズが合致した結果、芸人が司会を務める事が多くなってきた[2]。

お笑いタレント 関西芸人と関東芸人

関西芸人は文字通り、関西を地盤とする芸人である。基本的には関西弁を使う。東京で活動していても、関西出身であれば関西芸人と呼ばれる。

一方、関東芸人は狭義には関東地区出身の芸人をさすが、関東地区出身者でなくても、関東で活動していればこう呼ばれる。しかし、東京でデビューした関西出身者や、関西人と他の地域の出身者とが組んだコンビなども存在すること、また関西ローカルで放送される吉本興業系の番組では上京してからデビューした芸人や、大阪でデビューした後に上京し現在は東京に所属している関西弁芸人を「関東勢」に括り、生粋の大阪所属芸人のみを「関西勢」とすることも少なくないため、どちらに属すのかの基準は曖昧な部分も多い。

このような用語は、関西では吉本興業を中心として伝統的にお笑いの文化が根づいているという事実を反映しているが、元々は上方落語と江戸落語の区別に端を発しているといえる。


お笑いタレント 構成

1人の場合「ピン芸人」、コンビ等を組みつつ単独で活動する事を「ピン」と呼ぶ。
2人組を「お笑いコンビ」と言う。ダウンタウンの影響が大きく、これが一番好まれる。
3人組を「お笑いトリオ」、または「お笑いグループ」と言う。
4人組を「お笑いカルテット」[3]、または「お笑いグループ」と言う。
5人組を「クインテット」と言う。
6人以上メンバーで構成される場合は「お笑いグループ」、または「お笑いユニット」と言う。

お笑いタレント 事務所

多数のお笑いタレントを抱える事務所としては、大阪のよしもとクリエイティブ・エージェンシーや松竹芸能、東京ではワタナベエンターテインメントや浅井企画、太田プロ、オフィス北野、プロダクション人力舎、ホリプロコムなどが挙げられる。また、サンミュージックプロダクション、オスカープロモーションなどの異業種からの参入も目立つ。

主なお笑いタレント

ここでは2011年現在、テレビの第一線で活躍している者を指す。( )内は代表番組。 ダウンタウンが断トツで活躍しているが、他のタレントについても明記する。

BIG3
タモリ(森田一義アワー 笑っていいとも!)
ビートたけし(天才・たけしの元気が出るテレビ!!)
明石家さんま(踊る!さんま御殿!!)
司会
笑福亭鶴瓶(A-Studio)
所ジョージ(笑ってコラえて!)
お笑い第三世代
とんねるず(とんねるずのみなさんのおかげでした)
ダウンタウン(ダウンタウンのごっつええ感じ、ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!)
ウッチャンナンチャン(ウッチャンナンチャンのウリナリ!!)
狭間の世代
爆笑問題(サンデー・ジャポン)
さまぁ~ず(Qさま!!)
お笑い第四世代
ナインティナイン(めちゃ×2イケてるっ!)
雨上がり決死隊(アメトーーク!)
くりぃむしちゅー(くりぃむナントカ)
ネプチューン(ネプリーグ)
ロンドンブーツ1号2号(ロンドンハーツ)
お笑い第五世代
バナナマン(コレってアリですか?)
タカアンドトシ(もしものシミュレーションバラエティ お試しかっ!)
キングコング(はねるのトびら)
はんにゃ(爆笑レッドシアター)


ちなみにタモリ、ビートたけし、明石家さんまをBIG3と呼ぶのに対し、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンをお笑い第三世代代表3人、雨上がり決死隊、さまぁ~ず、くりぃむしちゅーをミドル3(『アメトーーク』より)などと呼ぶことがあり、いろいろな世代のお笑いタレントを3人まとめて総称する傾向がある。

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