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落語

落語

落語(らくご)は、近世期の日本において成立し、現在まで伝承されている伝統的な話芸の一種である。「落し話(おとしばなし)」、略して「はなし」とも言う。

都市に人口が集積することによって芸能として成立した。成立当時はさまざまな人が演じたが、現在は通常、それを職業とする人が演じる。衣装や道具、音曲に頼ることは比較的少なく、身振りと語りのみで物語を進めてゆく独特の演芸であり、高度な技芸を要する伝統芸能でもある。

本来「落語」とは落語家が行う演目(ネタ)のなかでも滑稽を中心とし、落ち(サゲ)を持つ「落とし噺」(おとしばなし)のことを指したが、現在では人情噺・芝居噺をも含めた総称として用いられる。
落語は寄席(よせ)と呼ばれる常設館や一般のホールで演じられることが多いが、近年は若手による小さなライブもある。落語家の舞台のことを「高座(こうざ)」と呼ぶ。

江戸落語と上方落語には小道具や慣習に違いがある。

落語 演目の種類

落語演目の分類にはいくつかの方法があり、それによって立てられる種類や区分も異なってくる。
成立時期によるもの – 古典落語/新作落語(創作落語)

江戸期から明治期ごろまでに原型が成立し、戦前までの時期に演出が確立した演目を「古典落語」とする。それ以外の「新作落語」は、多くの場合、作者もしくは初演者以外の噺家がネタにしていることが少なく、斯界全体の共通財産となっていないことが多いが、社会の動向に機敏に反応した時事的な作品や風刺性の濃いものが多いのが特徴である。なお、両者の線引きは必ずしも明確ではなく、多くの演者によって演じられる新作落語(桂米朝作「一文笛」等)のように境界線上にある作品も少なくない。

落語 演出の方法・構成によるもの – 落とし噺/人情噺/芝居噺(怪談噺・音曲噺)

古典落語のうち、滑稽を中心とし、噺の最後に落ちまたはサゲのあるものを「落とし噺」という。
人情の機微を描くことを目的としたものを「人情噺」とする。人情噺はたいていの場合続きものによる長大な作品で、かつては主任(トリ)に出た噺家が10日間の興行中連続して演じるものであったが、現在ではその区切りのいい一部分が取出されて演じられることが多い。この理由から、サゲはかならずしも必要ではない。

「落とし噺」や「人情噺」が素で上演されるのに対して、芝居のような書割や音曲を利用し、場合によっては演者が立って芝居のごとき見得をしたりする演目を「芝居噺」という。特に幽霊の出てくるような怪談噺は、途中までが人情噺で、末尾が芝居噺ふうになっている場合が多い。広義には芝居を題材にしたり、パロディにしたりしている演目を芝居噺とすることもある。この場合には、全体として「落とし噺」の構造を取り、なかにところどころ歌舞伎ふうの台詞廻しが混じる程度で、立って所作を行うことはない。

また大げさな所作が加わらなくても、音曲を利用して話をすすめてゆくネタもあり、これらを「音曲噺」と称する。 上方落語では噺の途中にはめものとして下座の音曲が利用される事が通常であるため、音曲噺という分類は江戸落語に限られる。

落語 難易度によるもの – 前座噺(旅のネタ)/大ネタ
前座が初めに習い覚える話を「前座ばなし」と呼ぶ。多くは口慣らしや口捌きを兼ねた単純で短い、しかし基礎的な技術を養うのに適したネタで、二つ目や真打によって演じられることもあるが、比較的簡単な軽い話とみなされるためにトリの演目になることは無い。

逆に大作といわれるネタや人情噺などのうちで特に難易度の高い作品を「大ネタ」と俗称することもある。上方では前座噺として長い続きものの「旅のネタ」を行うことが多い。どこで切って次の演者をあげてもいいようにできているためだといわれる。

落語 サゲの種類によるもの(落とし噺)

にわか落ち、ひょうし落ち、逆さ落ち、考え落ち、まわり落ち、見立て落ち、まぬけ落ち、じこく落ち、とたん落ち、ぶっつけ落ち、しぐさ落ちなどがある(落ちの項参照)。必ずしも十分な分類法ではないが、現在もっとも広く用いられている。このほかに桂枝雀による四分類法(ドンデン、謎解き、へん、合わせ)がある。

落語 表現の要素

落語の口演
落語において用いられる表現の要素は、
言葉
音声として発せられる口頭語。
仕草
最小限のものに限られ、基本的に立上って歩くことはない。
仕草のための小道具
扇子、手ぬぐい、上方落語における見台と拍子木、張扇の五種に限定される。

落語 そのほか特殊な演目における付随的要素

上方落語・音曲噺のはめもの、芝居噺の書割・ツケなど。
口演には直接関係ないが、落語の演ぜられる場を構成する要素
出囃子、噺家の衣装(着物)、座布団、高座、めくりなど。
の五種に区分することができる。このうち特に重要なのは言葉と仕草であり、これが落語という芸の根幹を成しているといえる。以下、言葉と仕草という要素を中心に説明してゆく。

落語 言葉

一般的に古典落語には定められた口演台本があり、噺家はこれを記憶して高座で再現する(ただし必ずしも筆記されたものとは限らない。多くの場合は口伝えである)。すなわち落語のもっとも基礎的構成要素は、これらの台本を含めた「言葉」であるといえる。言葉の側面から見た落語には以下のような特徴が指摘できる。

地の文と会話文(対話文)で構成されているが、噺の勘所にくると会話文によってテンポよく話を進めてゆき、説明的な地の文が少なくなる(この点が話芸としての講談との相違である)。

地の文の省略によって伝えきれないディテール(登場人物の細かい気持の変化や感情、会話をとりまく情景)は仕草によって補われて表現される。

登場人物の多寡にかかわらず全てを一人で演じ、役割わけをしない。このため声調、言葉づかい、話しかたなどによって登場人物の個性を印象づける工夫がなされる。

会話文から地の文への移りやその逆の場面、あるいはその他大勢的な多人数の会話においては、だれの視点から語られているのか判然としない語りが存在したり、気づかない間に語りの担い手が入れ替わったりするが、それが聴衆には不自然に聞こえない。

落語 仕草

仕草は、落語において言葉の欠を補うための存在である。すなわち演劇のように話のすべての部分について仕草が伴っているわけではなく、言葉だけでは表現しきれない部分に補足的な意味を持って仕草が付加されているのである。

もっとも「言葉だけでは表現しきれない」内容については、言葉では端的に表現できない動作や前述「言葉」の項で述べたような地の文の欠如を補うといった低次のものから、素の芸において聴衆の想像力を刺激するために付加されるきわめて高度のものまで含まれる。仕草においても言葉同様、一人全役が原則であり、噺家は必要に応じて次々にさまざまな役のさまざまな仕草を仕分ける。 仕草の主なものには以下のようなものがある。

表情:登場人物の表情を演じる。必要に応じてわざと強調した、おもしろい表情をつくることもある。
視線:上位の人物が下位の人物に話しかける場合には舞台下手を向き、逆の場合には舞台上手を向く。会話の部分において、こうして視線を切り替えることが、登場人物を仕分けて聴衆に印象付ける効果的な手法となる。
ものを食べる:閉じた扇子を箸に見立てて、あるいは手づかみで、さまざまなものを食べる仕草が落語のなかにはある。食べものや食べる状況によって仕分けるコツがそれぞれにある。名人桂文楽が甘納豆(「明烏」)・枝豆(「馬のす」)などで見せた至芸が有名。
歩く:正座したまま、あるいは軽くひざ立ちぐらいになって、手をぶらぶら動かしながら、両膝を交互に動かす。立上って実際に歩くことは基本的にない。
書く:もっとも一般的には手ぬぐいを帳面や紙、扇子を筆に見立てて字を書く。上方落語の場合は見台を机に見立てることもある。
舟を漕ぐ:落語にはめずらしい大きな動きで、扇子を竿や艪にして演じる。力仕事らしい感じを出さなければならない。

寝る:横になることができないので、腕を添えてひじ枕の感じを出す。演出上の工夫である。
指さす・目をつかう:落語の性質上、噺のなかに登場するモノを実際に高座に持出すことは不可能であるために、虚空を指さしたり、見たりすることで、あたかもそれらがあるかのように演じる工夫がある。例えば「刀を抜く」という仕草の場合、扇子を柄に見立てて抜いた後、鍔元から切先まで視線を動かしながら見ると、刀の長さが観客に伝わるという口伝がある。

涙を流す:主に人情噺で多く用いられる。高座に持参した湯呑みの中の茶や湯に指をつけ、その指で目の下を縦になぞる。

厳密には話芸ではないが、食べる、飲む、歩く、走る、着るなど、登場人物の動作を、座布団の上に制限された動きで表現することも、臨場感を出す上で非常に重要な役割を果たす。

落語 道具

使用する道具は、原則として扇子と手ぬぐいに限られる(稀に湯呑みも使われる)。扇子と手ぬぐいは、落語の表現上抽象性があらかじめ与えられており、状況に応じて、前者は箸や刀になり、後者は財布や証文になるなど、様々な用途で使用される。

扇子は落語家の符牒で「カゼ」と呼ばれ、特に幅が広く作ってある。刀、槍、箸、筆、キセルなど棒状の物の他に、開いた状態で手紙や提灯に見立てられる。

手ぬぐいは「マンダラ」と呼ばれる。財布や証文、煙草入れ、本、巾着など袋状・布状の物の他に、紐や縄として使われる。

上方落語ではこれらの他に見台と呼ばれる簡素な台と膝隠しが演者の前に置かれることがあるなどの特徴がある。

落語 服装・効果音

落語家は単純な柄か無柄の和服を着用する。このとき、羽織の脱ぎ方一つをとっても約束事があり、演目のイントロダクションともいうべき関連した話題や背景を紹介していく枕から本題に移行する合図として羽織を脱ぐ場合、大店(おおだな)などの商家を扱った演目では羽織を羽織ったままの場合、八つぁん・熊さん等の名で代表される町人や職人が登場するものでは羽織を脱ぐ、などの区別がある。更に、羽織の脱ぎ方も肩から滑らせるようにして一瞬で脱ぐ所作も注目すべき点である。このような決めごとにより、観衆の耳目を自身の芸そのものに集中させる。落語は純粋な話芸であり、演じている最中は、音曲や効果音などは制限される。ただし地域や演目などによっては、出し物の最中に音曲や効果音が使用される場合がある。
話の構成 [編集]

本筋に入る前に演目に関わりのある小話が語られ、これを「枕」という。これの果たす役割は、小話で笑わせて、本題の前に聴衆をリラックスさせる、本題に関連する話題で聴衆の意識を物語の現場に引きつける、落ちへの伏線を張る、などが挙げられる。

古典落語の演題の中には、現在では廃れてしまった風習、言葉を扱うものがあり、それらに関する予備知識がないと、話全体や落ちが充分に楽しめないことがあり、枕がこの目的にあてられることも多い。

本来の筋にはない、演者によって挿入されたおかしみのある部分を「くすぐり」と呼ぶ。一般的には話の筋から大きく外れないくすぐりが好まれる。

本来は落し咄は落ちによって締めくくられるが、最近は口演時間(寄席では概ね一人 15 分見当)の制約や、時代的に判り難い下げが出て来たなどの関係で、本来の下げまで行かずに終ることも多い。 前述のように人情噺、芝居噺などのほとんどには落ちはない。

落語 他の芸能との違い

落語が再現芸術でありながら演劇や舞踏と一線を画して考えられるのは、演劇・舞踏といった芸能が通常扮装を伴って演技されるのに対して、落語においては扮装を排し、素のままで芸を見せるためである。

すなわち落語では、噺家は登場人物や話の流れに相応しい身なりや格好をモノ(衣装・小道具・大道具・書割・照明・効果音)で表現することはなく、主として言葉と仕草によって演出効果をねらう。そのために、落語の表現要素は (1) 噺家の芸に結びつく基本的な要素(言葉、仕草)と (2) 1 を助けるためにその場に応じて何にでも変化できるようなニュートラルな最低限のモノ(小道具、衣装)とに区分することができるのである。これは、素の芸であることを前提とする落語の大きな特徴であるといえるだろう。

一人の話者が聴衆を笑わせる芸としては、ほかに漫談が挙げられる。しかし、漫談が聴衆に語りかける話法を用いるのに対し、落語は主として登場人物同士の対話によって話が進められてゆくことがひとつの大きな特徴といえるであろう。枕の部分を別とすれば、落語の本筋の部分では、必要最小限の情景の叙述(「地」といわれる部分)と、演出上、話からはなれて緊張を解くなどの目的で、「語りかけ」に戻ることもあるが、主として、物語は対話で成り立っている。 会話が少なく、主にいわゆる「地の文」で展開される話を「地噺(じばなし)」と呼ぶ(『紀州』など)。

落語 歴史

東京における代表的な寄席の一つ・新宿末廣亭
おもしろみのある話の源流は『竹取物語』、または『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に収められた説話にまでさかのぼる。滑稽な話を集めた本の元祖としては、誓願寺の安楽庵策伝が京都所司代の板倉重宗に語った話をもとに作られたという1623年の『醒睡笑』が挙げられる。

この本を元にして『子ほめ』『牛ほめ』『唐茄子屋政談』『たらちね』など現在でも演じられるはなしが生まれた。また、豊臣秀吉の茶話相手をつとめる御伽衆の一人、曽呂利新左衛門も落語家の先祖であるといわれるが、架空の人物であるとも言われる。

17世紀後半になると、江戸の町では大坂出身の鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋で「座敷仕方咄」を始めた。同時期に京都では露の五郎兵衛が四条河原で活躍し、後水尾天皇の皇女の御前で演じることもあった。大坂には米沢彦八が現れて人気を博し、名古屋でも公演をした。また、『寿限無』の元になる話を作ったのが初代の彦八であると言われている。

18世紀後半になると、上方では雑俳や仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始めた。これが白鯉館卯雲という狂歌師によって江戸に伝えられて江戸小咄が生まれた。上方では1770年代に、江戸では1786年に烏亭焉馬らによって咄の会が始められた。やがて1798年に岡本万作と初代三笑亭可楽がそれぞれ江戸で2軒の寄席を開くと、その後寄席の数は急激に増えた。

幕末から明治にかけて活躍した三遊亭圓朝は歴史的な名人として知られ、圓朝の高座を書き記した速記本は当時の文学、特に言文一致の文章の成立に大きな影響を与えた。

1876年4月、東京府権知事楠本正隆の名で、諸芸人に対し鑑札を発行し、税金を課すことを布告。これにより芸界の統一も不可欠となり、芸人仲間のうちで人望と実力のある三人が頭取として選ばれた。三遊亭圓朝、3代目麗々亭柳橋、6代目桂文治の三人が交代で月番で責任を負うシステムが作られた。くじ売りの禁止、シモがかったネタの制限など、警察による寄席の取締も徐々に厳しくなり、高座は健全化されていった。

1917年8月には柳派と三遊派が合併し、4代目橘家圓蔵、初代三遊亭圓右、3代目柳家小さんら売れっ子たちが中心となり、大手の寄席二十八軒との月給制の契約を交わす演芸会社「東京寄席演芸株式会社」を旗揚げした。その月給制に反対し、従来どおりのワリ(給金制)で対抗するべく、5代目柳亭左楽は「三遊柳連睦会(通称、睦会)」を設立した。その後前者は翌年11月に分裂。

「東京演芸合資会社」と名前を変え、一方では上野鈴本を中心とした一派が「落語席中立会」(通称、中立会)を結成し、これがのちに「東西落語会」(東西会)へと発展した。1923年9月1日に起こった関東大震災を契機として三派合同の気運が生まれ、のちに合併し「東京落語協会」(落語協会の前身)を設立した。


上方では明治期に桂派と浪花三友派とがしのぎを削り、初代桂文團治・二代目桂文枝・三代目笑福亭松鶴ら名人上手が輩出、大正から昭和にかけて初代桂春團治らが活躍したが、昭和期に漫才に押されて一時衰退、戦中戦後五代目松鶴・四代目桂米團治ら「楽語荘」によって辛うじて命脈が保たれたのち、上方落語協会が設立、今日の繁栄を迎えている。
大学のサークルとしての落語研究会(通称「落研(おちけん)」)が生まれたのは昭和20年代頃で、現在、学生落語の全国大会として、“落語の祖”といわれる安楽庵策伝の名を冠した「全日本学生落語選手権・策伝大賞」が年1回、岐阜市で開催されている。


落語 落語家の所属団体

寄席や演芸場(ホールともいう)の興行で演じるプロを落語家(噺家)と呼ぶ。落語家の同業組合(ギルド)に加入していないとプロとは呼ばれない。ギルドである以上、内部では徒弟制度が敷かれている。

落語 関東の落語家

社団法人落語協会(落協)
社団法人落語芸術協会(芸協)
円楽一門会
落語立川流


落語 関西の落語家

上方落語協会

落語 その他

東方落語民話寄席

落語の演題

:Category:落語の演目、落語の演目一覧を参照。

落語 録音・録画の収集

高座の模様が収録されたレコード、カセットテープ、CD等が市販されており、購入して収集したり、ラジオ、テレビ等で落語を放送する番組をオープンリールテープやカセットテープ、MD等に録音、ビデオテープ等に録画をするエアチェックをして記録メディアに録音・録画をし収集することも容易である。

現在では入手不能な、戦前の落語家たちの名演が聞けるSP盤を集める者もいる。特に著名な収集家として、レコード(SP)蒐集では 八代目都家歌六と岡田則夫が挙げられる。

「SPレコード 復刻CD集 昭和戦前面白落語」
八代目都家歌六の著書『落語レコード八十年史』
レコード化されていない音源なら 川戸貞吉が挙げられる。彼は落語テープの収集では日本一[要出典]。放送等に限らず、独自に高座を収録し録音を残し続けた。


CDボックスセット 川戸貞吉(撰)『古典落語の巨匠たち・寄席の噺・ホールの噺』第一期・第二期(ゲオ)
その他、玉置宏は「ラジオ名人寄席」にて収集家であることが放送された。
また、玉置宏を告発した草柳俊一は、多くの落語録音にレコーディング・エンジニアとして従事し「極楽亭プロジェクト」なる協同蒐集活動を呼び掛けてはいるが、研究活動名義による市販音源の複製品の聞き廻しや、エアチェック音源の交換をweb上でよびかけるなど、蒐集活動に法的問題があるなどの指摘があるため、研究者に含めないケースが多い。
矢野誠一・草柳俊一(著)『落語CD&DVD名盤案内』ISBN 978-4479300168
落語に関するありとあらゆる資料(書籍・古書・音源・刷物・グッズ・自筆物など)の個人収集家としては次の3氏が挙げられる。
桂文我 (4代目)
岡田則夫(前出)
前田憲司

落語 その他

明治時代から興行収入の歩合(割)だけでは生活が成り立たなくなってきた。スポンサー(旦那、お旦)からのお小遣いや、妻の賃労働収入をあてにしたり、落語家自身がお座敷(酒席)での余興から収入を得たりした。副業・内職・アルバイトの、収入源・額は様々である。

落語 関連項目

落語研究会 (落語会)
落語研究会 (サークル活動)
日本お笑い史
寄席
禁演落語
落語家
落語家一覧 (五十音順)
落語家の亭号一覧
香盤
いき
野暮
名跡

落語 関連書

歴史書
暉峻康隆『落語の年輪』(2分冊、河出文庫)
『名人名演落語全集』の1巻〜8巻まで
落語家のバイオグラフィーや襲名記録をまとめたもの
橘左近『東都噺家系図』
『古今東西落語家事典』
山本進 『図説落語の歴史』 河出書房新社 2006年 ISBN 4-309-76079-1


落語のネタが元になった作品 及び 落語を題材にした作品

落語のネタが元になった作品

落語 映画

映画 落語長屋は花ざかり 1954年 監督:青柳信雄
映画 夏祭り落語長屋 1954年 監督:青柳信雄
映画 落語長屋お化け騒動 1954年 監督:青柳信雄
映画 幕末太陽傳 1957年 監督:川島雄三
映画 大笑い江戸っ子祭 1959年 監督:齋藤寅次郎
映画 幽霊繁盛記 1960年 監督:佐伯幸三
映画 運がよけりゃ 1966年 監督:山田洋次
映画 落語野郎 大脱線 1966年 監督:杉江敏男
映画 落語野郎 大馬鹿時代 1966年 監督:杉江敏男
映画 落語野郎 大爆笑 1967年 監督:杉江敏男
映画 落語野郎 大泥棒 1967年 監督:松林宗恵
映画 ゴルフ夜明け前 1987年 監督:松林宗恵
映画 怪談 2007年 監督:中田秀夫
映画・テレビドラマ 歓喜の歌 (映画)2008年 監督:松岡錠司 (テレビドラマ)2008年 制作:北海道テレビ(テレビ朝日系列)

落語 テレビ
テレビ番組 にほんごであそぼ「寿限無」2003年 NHK教育テレビ
テレビ番組 てれび絵本「えほん寄席」 2006年〜 NHK教育テレビ(2008年現在も 不定期に放送)

落語 ラジオ
ラジオドラマ ラジオ生放送ドラマ「芝浜」 2006年 文化放送
ラジオドラマ 生ラジオドラマ「火焔太鼓」 2007年 文化放送

落語 舞台

宝塚歌劇 月組公演 なみだ橋えがお橋 2002年 作・演出:谷正純
宝塚歌劇 花組公演 くわらんか 2005年 作・演出:谷正純
舞台 地獄八景・・浮世百景 2007年 監修:桂米朝 脚本:東野ひろあき 演出:G2

落語 その他

アニメーション(ビデオソフト) 山藤章二のラクゴニメ Vol.1〜Vol.10 続1〜続2 1993年〜 イラスト:山藤章二 企画:APPカンパニー 販売:ポニーキャニオン (DVD) 2003年 Vol.1〜Vol.4
短編アニメーション 頭山 2002年 監督:山村浩二

落語 落語を題材にした作品

落語 映画

映画 泣き笑い地獄極楽 1955年 監督:浜野信彦
映画 世にも面白い男の一生 桂春団治 1956年 監督:木村恵吾
映画 羽織の大将 1960年 監督:千葉泰樹
映画 落語天国紳士録 1960年 監督:青柳信雄
映画 色ごと師春団治 1965年 監督:マキノ雅弘
映画 陸軍落語兵 1971年 監督:弓削太郎
映画 の・ようなもの 1981年 監督:森田芳光
映画 花とアリス 2004年 監督:岩井俊二
映画 やじきた道中 てれすこ 2007年 監督:平山秀幸
映画 しゃべれども しゃべれども 2007年 監督:平山秀幸
映画 落語娘 2008年 監督:中原俊
映画 落語物語 2011年 監督:林家しん平

落語 テレビ

テレビ番組 クライマックス 人生はドラマだ 第22回 「古今亭志ん生」 1960年 日本テレビ
テレビドラマ アーラわが君 1969年 フジテレビ
テレビドラマ 東芝日曜劇場 第933回 「秋は浪花のため息」 1974年 朝日放送
テレビドラマ 泣いてたまるか 第6話 「こちら突撃リポーター」 1986年 TBS系列
テレビドラマ 金曜ドラマ タイガー&ドラゴン 2005年 脚本:宮藤官九郎 TBS系列
テレビアニメ 落語天女おゆい 2006年 原作:桂歌若 作画:いけだたかし
テレビドラマ 昭和の爆笑王ドラマスペシャル「林家三平ものがたり おかしな夫婦でどうもすいませーん!」 2007年 テレビ東京系列
テレビドラマ ちりとてちん 2007年 (NHK連続テレビ小説)
テレビドラマ 子ほめ 2007年 関西テレビ

落語 ラジオ

ドキュメンタリードラマ はなし塚異聞 2001年 脚本・案内役:桑名英文 NHKラジオ第1放送

落語 小説

小説・映画 鬼の詩 (小説)1974年 著:藤本義一 (映画)1975年 監督:村野鐵太郎
小説・テレビドラマ 志ん生一代 (小説)1977年 著:結城昌治 (テレビドラマ) おりんさん 1983年 制作:東海テレビ(フジテレビ系列)
小説 春桜亭円紫シリーズ 1989年〜 著:北村薫
小説・映画 上方苦界草紙 (小説)1991年 著:藤本義一 (映画)1991年 監督:村野鐵太郎
小説・映画 寝ずの番 (小説)1998年 著:中島らも (映画)2006年 監督:マキノ雅彦
小説・ラジオドラマ・漫画・映画 しゃべれどもしゃべれども (小説)1998年 著:佐藤多佳子 (ラジオドラマ)1999年 NHK-FM (漫画)2007年 (映画)2007年 監督:平山秀幸
小説 ハナシがちがう!—笑酔亭梅寿謎解噺 2004年 著:田中啓文
小説・映画 落語娘 (小説)2005年 著:永田俊也 (映画)2008年 監督:中原俊
小説 落語シリーズ《三人目の幽霊 他》 2001年 著:大倉崇裕


落語 エッセイ

エッセイ・映画・テレビドラマ 与太郎戦記(エッセイ)1979年 著:春風亭柳昇 (映画)与太郎戦記 1969年 監督:弓削太郎 続・与太郎戦記 1969年 監督:臼坂礼次郎 新・与太郎戦記 1969年 監督:田中重雄 与太郎戦記 女は幾万ありとても 1970年 監督:弓削太郎 (テレビドラマ)花王名人劇場 「春風亭柳昇の与太郎戦記 ああ出征の巻」 1983年 関西テレビ
エッセイ・テレビドラマ (エッセイ)正蔵師匠と私 1988年 著:2代目林家正楽 (テレビドラマ)晴のちカミナリ 1989年 NHK総合テレビ
エッセイ・テレビドラマ 噺家カミサン繁盛記 (エッセイ)1990年 著:郡山和世(柳家小三治夫人) (テレビドラマ)1991年 フジテレビ

落語 漫画

漫画・テレビドラマ じんじんの仁 (漫画)1973年 原作:小松君郎 作画:影丸譲也 (テレビドラマ)1974年 東京12チャンネル(現 テレビ東京)
漫画 パタリロ! 1978年 著:魔夜峰央
漫画 寄席芸人伝 1982年 著:古谷三敏
漫画 こんこんちきち 1996年 著:なかいま強
漫画 山遊亭海彦 1997年 原作:立川談四楼 作画:さだやす圭
漫画 風とマンダラ 1998年 著:立川志加吾(現・雷門獅篭)
漫画 え~カミさんを一席 2000年 著:星野めみ
漫画 帰ってきたえ~カミさんを一席 2003年 著:星野めみ
漫画 たまちゃんハウス 2005年 著:逢坂みえこ
漫画 如春亭にようこそ 2006年 著:星野めみ
漫画 雷とマンダラ 2006年 著:雷門獅篭
漫画 オチケン 2006年 著:むっく(同人誌)
漫画 風間亭やんわり 2008年 著:風間やんわり(落語の演題を現代の解釈で漫画化)
漫画 わらばな ????年 原作:田中啓文 作画:たなかしえ
漫画 じょしらく 2009年 原作:久米田康治 作画:ヤス
漫画 どうらく息子 2010年 著:尾瀬あきら 監修:柳家三三

落語 その他

舞台 すててこてこてこ 1996年 脚本:吉永仁郎
舞台 劇団こまつ座公演 圓生と志ん生 初演:2005年 脚本:井上ひさし

落語家(噺家)

落語家(噺家)

落語家(らくごか)は、落語を演じて視聴させることを職業とする人。

戦前は、寄席がおもな活動の拠点で、グループを組んで地方公演も行っていたが、戦後はその話術を生かしテレビやラジオの司会業、パーソナリティなどの副業をすることも多い。「話家」「噺家」「咄家」(はなしか)は、「落語家」の古い表現である。

落語家の演ずる噺は大別して二種類ある。

落とし噺:噺の終わりに「落ち(「さげ」とも言う)」が有る噺。「落語」はこれに該当する。

人情噺:噺の終わりに「落ち」が無い噺。基本的に続き続き・・・で引っぱっていく。怪談噺等もこれに属する。

このため、「落語家」という表現は、厳密には 1. のみを語る者ということになり、1. 2. 両方語る場合「噺家」の方が適切な呼称であるが、1.に属する一部の噺も人情噺として捉える主張の存在もあり、現在は「落語家」で定着している。

江戸時代には狂歌や雑俳に関わる人々など素人の咄家も活躍していたが、やがて烏亭焉馬や三笑亭可楽などの職業咄家たちがあらわれた。

落語家(噺家)の身分

その身分は(見習い、)前座、二つ目、真打からなる。この区分けがあるのは、現在では東京だけであり、上方にはこれらの身分は存在しない。

落語家(噺家)見習い(みならい)

弟子入りを志願した師匠から入門の許可を得た落語家の卵。入門したあと、前座名(名前)を師匠から貰い、前座登録をして、前座として楽屋入りするまでは「見習い」と呼ぶ。

正規の身分制度にはもともと存在しないが、前座の数が多いのでそれまでの待機をする。

おもに師匠宅で師匠・その家族のために家事などの下働き・雑用をする。休みはない。

昔は師匠宅に住み込みで身の回りの世話をすることもあったが、現在は通いの方が多い。食事は師匠宅でするので(作るのは見習い本人だが)食費は要らない。住み込みであれば、家賃や衣装代も要らない。娯楽等を楽しむことは禁じられている。見習いと前座は、落語家社会では人間扱いではない。


落語家(噺家) 前座(ぜんざ)

仏教における前座(まえざ)説教が語源。

前述の、師匠宅の家事・雑用の他に、寄席での仕事(前座修行)が課せられる。

寄席での、呼び込み太鼓・鳴り物・めくりの出し入れ・色物の道具の用意と回収・マイクのセッティング・茶汲み・着物の管理など楽屋、寄席共に毎日雑用をこなす(上方では、これらの仕事のうち太鼓・鳴物以外は「お茶子」と呼ばれる寄席従業員によって行われる。)。

寄席で「開口一番」と呼ばれる最初の一席を受持つ場合もあるが、あくまで勉強の為であるから通常は落語家名は番組にも載らない。また、割(出演料)ももらえない。

しかし、前座作業の代償として、僅かながら1日あたり定額の小遣い(給金)がもらえる。4代目橘家圓喬は一旦二つ目に昇進したが、親を養う金を稼ぐために、自ら前座に降格した(関山和夫『落語名人伝』)。

このように、「二つ目に昇進できるのにあえて前座に止まる」落語家をへたりという。

永久前座という異名もある。昭和30年代位までは、へたりが数人いた。橘ノ圓福・林家正吉らである(7代目立川談志が著書『談志楽屋噺』で紹介)。

歌舞伎でいう「頭取」のようなものである。実際には寄席従業員として働いているのと変わらない。ただしへたりは人間扱いされていなかったようである(圓福は寄席の楽屋で仕事中に脳溢血で死んだ。倒れた直後、楽屋に某大看板落語家が入ってきて、死につつある圓福を一瞥し、「まだ死なねェのか」と信じられないことを言った)。

一方上方ではへたりは太鼓・鳴物の演奏を務める人を意味し、また以前はかなり重宝された。主なへたりには三升小三(戎橋松竹)・桂右之助(千日劇場・旧うめだ花月)・桂文蝶(千日劇場)・桂團治(道頓堀角座)・橘家つばめ(神戸松竹座)・2代目三升紋三郎(新花月)等がいた。


当日の寄席で働く前座のうち、最も古株を「立前座」(たてぜんざ)と呼ぶ。寄席興行の進行について全ての決定権を持つ、重要な役回りである。実際には、成り立ての真打よりも、立前座のほうが権力を持つ。立前座は基本的に労働しなくてよく、仕事を他の(下の)前座に指図するだけである。あえて言えば、ネタ帳を記録するのも立前座の仕事である。

落語家(噺家)二つ目(ふたつめ)

前座と真打の間。辞書に掲載されている形では「二つ目」だが、最近では「二ツ目」と表記されている事が多い。この表記については特に決まりが無く、人によっては「二っ目」や「二ッ目」と仮名を小さく書く場合もある。だるまに二つの目を入れられるほど、芸が開眼したという意味。

相撲では関取に相当する。つまり、一人前の落語家として認められる。また、落語家社会の中でようやく人間とみなされる。自分の労力と時間を100%自分のためにだけ使うことが許される。師匠宅の雑用も寄席での裏方仕事もしなくてよい。以下のことが許される。

(紋付きの)羽織を着ること。
番組にも名前が出る。
自分の手拭いを昇進の挨拶に配ること。(配らなければならない)
飲酒・喫煙
自分で落語会を開催したり、(師匠とのつながりのない)他の落語会に出演させてもらうこと。
自分でテレビ・ラジオ出演や営業等への売り込みをすること。また実際に出演すること。
正規の落語家として、寄席で落語をして割がもらえるようになる。しかし、定席への出演機会は大変限られているので、仕事は基本的に自分で探してこなければならなくなる。さもなくば本当に仕事がない状態となる。前座でやってきた雑用が全く無くなった分、その小遣いがもらえる訳でもなく、経済的には苦しいと言われる。最近では、芸事と関係ない(肉体労働や、マニュアル通りに接客する店員などの)アルバイトなどをするものも少なくない。なお、かつての上方落語では「中座」(なかざ)と呼ぶ。


実際にはヨビと呼ばれる“仕事”が存在する。これは、代演要員として寄席に出勤するというもので、抜いた落語家の穴が埋まらない時に高座に上がれる。一部を除いて、二つ目までは自身の師匠が死去した場合、別の真打の門下に移ることになっている。


落語家(噺家) 真打(しんうち)

「(蝋燭の)芯を打つ」ことから転じた。蝋燭は江戸時代の室内照明であり、それを打つ=消すのは最後に上がる出番の落語家が演じ終わってからである。つまり主任(とり)のみが消すことができる=芯を打てる。

その名の通り寄席で主任(とり)を務めることができる資格が与えられるほか、敬称が「師匠」となる。また弟子をとることが許される。

真打昇進の際には、特別の興行となり、新真打本人がその芝居の主任となる。そして真打披露目が行われ口上が述べられる。これがなければ昇進したことにならない。つまり、真打昇進と興行とは不可分である。興行中に他の出演者に高級弁当を振る舞い、終演したら真打本人が全経費を払う飲み会が始まる。出費はかなりのものになるが、反面、タニマチからのご祝儀が見込める。


1980年代半ば頃から落語協会、落語芸術協会共に所属する噺家の半数以上を真打が占めるようになり、制度としては形骸化しているとの意見もある。

落語家(噺家)問題点

戦後、真打昇進制度は数度変わった。しかしその選考基準が不明瞭であるとする批判が一貫してある。これがひいては落語家内部の対立の原因となっている。

真打制度は香盤(同一協会内の落語家間の序列)と密接に関係している。

真打昇進の順番、すなわち真打昇進の早い遅いによって、真打達の香盤が決定される。真打昇進以降、中年から老年にかけて、人気、実力が変動することがあっても、順位は入れ替わらない。香盤が一門同士の対立を避けるための談合・密約を果たしているという意見もある。

落語家(噺家) 戦後の騒動

円楽一門会につながる落語三遊協会の設立
1978年、6代目三遊亭圓生が落語協会理事会において当時常任理事3代目三遊亭圓歌・4代目三遊亭金馬・5代目春風亭柳朝の更迭、大量真打の反対の動議を提出し結果棄却された事に起因しており、この事が昇進試験制度設立につながる。

落語家(噺家) 立川流の創設

1978年の落語協会分裂騒動では落語協会に残った7代目立川談志だが、1983年、昇進試験をめぐり落語協会主流派と談志一門が対立した事が理由とされる。この事件は試験制度による改革も決して業界全体を満足させるものではない事を証明したとされる。

根本のところは制度の運用以前の段階で矛盾がある。

落語家(噺家) 上方における真打制度の不在

真打制度は戦前には上方にも存在した。しかし、戦中から終戦直後の時期において大阪では落語より漫才が好まれたこともあり、事実上上方落語が崩壊していた時期に消滅した。その真打制度は上方落語協会で1977年2月に復活して公表もされた。

しかし、現在は制度として事実上消滅している。内部の噺家ランク(例えば協会費のランク)も他の基準(年功序列)で決定している。また上方では、香盤は内部で存在している(かつて真打のみ一回だけ公表もされた)ものの、現在では外部には一切非公開となっている。東京と同じシステム(噺家の順位であり、同格は存在しない)かどうかもわからない。

当時の会長6代目松鶴は「真打にふさわしいかどうかはお客様が決めること(であり、真打制度に胡坐をかいて落語家サイドが真打を客に押し売りするのはおかしい)」と言っている。その後、定席天満天神繁昌亭開設時に、真打制度復活が論議されたが見送られている。上方落語ならではの自由な気風を損ねるというのが、真打制度非導入の理由であった。

このこともあり、主に上方落語四天王の弟子には、寄席やテレビなどで早くに知名度をあげ、入門から7~10年程度で弟子を採る者も多くいた。

また、修行中に師匠が死去しても、別の師匠の元に移籍するというようなことが無い。代表的な例には6代目松鶴の最後の弟子、笑福亭鶴二がおり、入門から1年も経たずに師匠松鶴が死去し、兄弟子にあたる7代目松鶴(笑福亭松葉)らの指導を仰いだが、現在でも「松鶴の弟子」として活動している。ただし全員がその限りではなく、江戸のように元の師匠の兄弟弟子などに移籍する場合も稀にある。後者の例では、5代目林家小染などがいる。


真打・香盤問題は東京でも非常にセンシティブな問題で、協会分裂の直接の引き金になっている。上方落語協会ではもっとナイーブな理由(殆ど口喧嘩)で大物が脱退したことすらある。

これ以上騒動のタネを抱え込むのはたまらないであろう。ややこしい問題(真打)を無理に導入するよりも、現状を維持するほうがいいというのは十分理解できる(真打制度のメリットとして、理事の利権となることがある。東京では、幹部が子飼いの落語家を「真打にしてやる」ことで恩を売り、一生頭が上がらないようにするということもかつてはあったらしいが、現在は完全な年功序列制導入に伴いそれはできなくなった。

香盤制度・真打制度は完全な実力主義でもないので、“急激に売れた人、若い時から売れっ子になった人”に対する処遇が難しいというのも理由の一つである(もちろんこのような落語家は興行的にプッシュすべきであるが、香盤が存在すると中々難しくなる)。

真打制度は真打昇進と興行をリンクさせるが、上方落語協会(繁昌亭)は(香盤と関係なく)「賞」を落語家に受賞させそれと興行をリンクしている。

また、東京の協会では幹部を話し合いで選ぶが、上方落語協会では選挙で選ぶ。ただし選挙は表向きの場合で、実際には選挙の前の話し合いで決まることが多い。

落語家(噺家) アマチュアの落語家

大学の落語研究会に所属する学生などのほかにもアマチュアの落語家が昔から存在し、これらの人々は「天狗連」と呼ばれる。プロの落語家が使わない亭号・屋号を名乗ることが多い。その他にも、地方で落語をベースにした独自の活動を主体にしている、大分県の県南落語組合などのような社会人活動グループなどもある。

落語家(噺家) 落語家の所属団体

落語家(噺家) 関東の落語家

社団法人落語協会(1923年設立、現会長:10代目柳家小三治)
公益社団法人落語芸術協会(1930年設立、現会長:桂歌丸)
円楽一門会(1978年設立、現会長:三遊亭鳳楽)
落語立川流(1983年設立、現家元:立川談志)

落語家(噺家) 関西の落語家

上方落語協会(1957年設立、現会長:桂三枝)
笑福亭鶴光一門は、筆頭弟子の笑福亭学光を除き上方落語協会と落語芸術協会の両方に加盟している。

落語家(噺家) 無所属の落語家

上記五団体に属さないプロ落語家を以下に挙げる。いわゆる天狗連でなく、プロとしての修行を積んだ者、かつ生存者に限定する。

但し、既に名を成した芸能人等が副業、余興として落語もやる場合(最近では、風間杜夫、森末慎二(金メダル亭慎二)、山田隆夫(鈴々舎鈴丸)、にしゃんた、友近、テリー伊藤(林家テリ平)、高田文夫(立川藤志楼)、ミッキー・カーチス(ミッキー亭カーチス)、荻野アンナ、ダイアン吉日等)は除く。

落語家(噺家) 協会を離脱しているだけの者

旧桂枝雀一門(3代目桂南光以下の弟子たち)※雀三郎一門・雀松・九雀・む雀は復帰
3代目桂米朝一門のうち桂小米・桂千朝・桂宗助(米朝本人や、上記の枝雀一門の一部を除く他の弟子は協会加入)
2代目笑福亭松之助一門
名古屋の落語家 [編集]
雷門小福一門(もとは東京落語・雷門福助の系譜。)

落語家(噺家) 周囲から孤立してプロ活動を続ける者

落語家(噺家) 東京
2代目桂小金治(もとは日本芸術協会。映画俳優として売れたため落語家活動ができなくなり脱会。以降フリー)
2代目春風亭華柳(1991年落語芸術協会を脱会してフリー)
2代目快楽亭ブラック一門(落語協会を師・談志とともに出て、その立川流からも除名。本人の著書ISBN 978-4893086396 とISBN 978-4862480217になぜ除名されたかが事細かに書かれている。

除名後、孤立した活動となってから弟子を新たに複数とっており、彼らもまた孤立した存在となっている(プロ落語家とすら看做されていない可能性がある))

柳亭風五 柳橋門下から柳亭風枝門下になりその後フリー。1975年から2010年に掛けて柳亭風之進。
橘家玉蔵 七代目~八代目圓蔵一門。


落語家(噺家) 関西

3代目林家染三一門(関西落語文芸協会を結成)
桂春彦

落語家(噺家) 岡山

雷門喜助(雷門福助門下。瀧口雅仁(オフィスぼんが)著『噺家根問』ISBN 978-4779112973 参照。なぜ岡山かも記述してある)

落語家(噺家) 事実上のレッスン・プロ

東家夢助 (函館。東京時代の芸名柳家小三太。自殺未遂から、函館労音事務員として受け入れられ、救われる。アマチュア落語家を集めた「全国落語大学」学長。著書『はい、出前落語です』)
7代目桂小文吾 (鳥取県米子市。上方落語から身を引いてヘルスセンターに就職。社員として勤務していたが、その舞台に自ら上がるなど、何かしら芸はしていた。定年退職後、フルタイムのプロ落語家に復帰。瀧口雅仁(オフィスぼんが)著『噺家根問』ISBN 978-4779112973 参照)
はち好(沖縄)
物故者のなかで、無所属の落語家の筆頭格は柳家金語楼(吉本興業から離脱(昭和20年代)以降)・3代目三遊亭金馬などが挙げられる。

落語家(噺家) 首都圏・中京・関西圏以外に拠点を移した落語家

上記を除く。落語家として現役の者のみ。
三遊亭洋楽(函館市議会議員)
桂七福(徳島。徳島県観光協会理事)
桂米蔵(山梨県)
2代目桂枝光(北海道。著書『お笑い屯田兵ただ今奮闘中』。前名桂小つぶ)
桂米裕(落語修行中に住職になった。岡山県矢掛町の住職。)
また4代目三遊亭歌笑はすでに帰京。笑福亭笑子は一時大阪で活動していたものの再度シンガポールに移住(彼女はもともとシンガポールでアナウンサーをしていたところ笑福亭鶴笑の高座を見て感動し弟子入りする。鶴笑がロンドンに移住しても夫、子供を連れてロンドンへ移住。今回のシンガポール移住は夫の転勤に伴うもの)。

落語家(噺家) 政治家になった落語家

林家とんでん平(札幌市議会議員。著書『真心あかね雲』)
三遊亭窓里(川越市議会議員)著書『三遊亭窓里の自画自賛』
三遊亭らん丈(町田市議会議員)
桂三発(津市議会議員、旧安濃町議会議員)
窓里(師:6代目圓窓)、らん丈(師:圓丈)、前項の洋楽(師:5代目圓楽)は奇しくも6代目圓生の孫弟子であり、年代とキャリアも同世代。 桂三発は町議会議員も勤めたことがある(市町村合併に伴い失職)。

国政では、立川談志は1971年の第9回参議院議員通常選挙全国区に無所属で立候補し当選(1969年にも衆議院選挙旧・東京都第8区に無所属で立候補し落選)。2011年現在では落語界唯一の国会議員経験者であり、のちに自由民主党へ入党し、1975年に三木内閣の沖縄開発政務次官を務めている(但し、舌禍により在任36日で辞任)。

月亭可朝は参議院選挙に2回出馬(談志と同じく1971年第9回参議院議員通常選挙全国区に無所属で出馬と2001年第19回参議院議員選挙に自由連合公認で出馬)してすべて落選している。桂きん枝も2010年第22回参議院議員通常選挙比例代表区に民主党公認で出馬したが落選した。

落語家(噺家) かつてプロ落語家だった著名人

落語家から寄席の色物(漫才・漫談・物まね・コント等)に転じたケースを除く。またアマチュア落語家として入門したケース、既に名を成した芸能人等が落語もやる場合も除く。

永井荷風(三遊亭夢之助)(注:三笑亭ではありません)
乙田東洋司(三遊亭扇生)
和多田勝(笑福亭小つる)
宗矢樹頼(三遊亭窓矢)
伊集院光(三遊亭楽大)
嘉門達夫(笑福亭笑光)
クーペ(林家クーペ)
ダンカン(立川談かん)
上田信彦(桂ましゅ麿)
親子落語家 [編集]

落語家(噺家)(二世落語家)
坊ちゃん5
7代目林家正蔵 – 初代林家三平 – 9代目林家正蔵・2代目林家三平 – 林家こぶた
林家木久扇(初代林家木久蔵) – 2代目林家木久蔵
三遊亭好楽 – 三遊亭王楽
2代目桂春蝶 – 3代目桂春蝶
月亭八方-月亭八光
初代橘屋圓太郎 – 三遊亭圓朝
三遊亭金勝 – 柳家金語楼・先代昔々亭桃太郎
3代目林家染語楼 – 4代目林家染語楼 – 林家市楼
初代三遊亭圓右 – 2代目三遊亭圓右
初代桂文治 – 2代目桂文治
3代目桂文治 – 江戸4代目桂文治 – 6代目桂文治
4代目三遊亭圓生 – 橘家小圓喬
2代目桂才賀 – 5代目桂文楽・春風亭傳枝
2代目三遊亭萬橘 – 初代柳家小せん
3代目麗々亭柳橋(後の春錦亭柳桜) – 4代目麗々亭柳橋・5代目麗々亭柳橋
5代目笑福亭松鶴 – 6代目笑福亭松鶴 – 5代目笑福亭枝鶴
5代目笑福亭松鶴 – 笑福亭小つる (和多田勝)(孫)
5代目古今亭志ん生 – 10代目金原亭馬生・3代目古今亭志ん朝
2代目桂春團治 -3代目桂春團治
三遊亭圓麗 – 2代目三遊亭小圓朝 – 3代目三遊亭小圓朝
3代目三遊亭圓之助 – 4代目三遊亭小圓朝
3代目桂三木助 – 4代目桂三木助
3代目桂三木助 – 桂三木男(孫)
3代目桂米朝 – 5代目桂米團治
初代柳家蝠丸- 10代目桂文治
古今亭圓菊 – 古今亭菊生
5代目柳家小さん – 6代目柳家小さん
5代目柳家小さん – 柳家花緑(孫)
6代目柳家つば女 – 11代目柳家小きん
4代目三遊亭金馬 – 三遊亭金時
6代目三遊亭圓窓 – 三遊亭窓輝
4代目桂福團治- 桂福若
桂團輔 – 5代目桂文吾
桂團丸 – 初代桂小春團治
2代目露の五郎兵衛 – 露のききょう(綾川文代)
月亭都勇 – 3代目三遊亭圓馬
月の家満月 – 4代目三遊亭圓馬
初代林家菊丸 – 2代目林家菊丸・林家花丸
林家うさぎ – 笑福亭花丸(林家花丸)
初代五明楼玉輔 – 2代目入船亭扇橋
3代目桂文三 – 4代目桂文三
3代目桂文都 – 4代目桂文都
2代目笑福亭松之助 – 明石家のんき – 明石家ぽんた
5代目柳亭痴楽 – 3代目柳亭小痴楽
6代目三遊亭圓楽 – 三遊亭一太郎
4代目桂梅團治 – 桂小梅
5代目林家小染 – 3代目林家染八
5代目三遊亭圓生 – 6代目三遊亭圓生(義理の息子)

落語家(噺家)代表的な落語家

初代三遊亭圓朝(さんゆうていえんちょう)

父は初代橘家圓太郎。江戸末期から明治にかけて活躍した落語家。落語筆記や寄席の近代化、新作落語など、落語の近代化に尽くしたため、中興の祖として仰がれる。講談的な人情噺を得意とした。『牡丹燈籠(ぼたんどうろう)』、『芝浜』、『真景累が淵(しんけいかさねがふち)』、『乳房榎(ちぶさえのき)』などが代表作である。
明治期の名士であり、夏目漱石の小説などにも描かれた。墓は谷中にある。

5代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)

旧旗本美濃部家の息子だが、遊びが過ぎて勘当され、芸を志す。当初は落語だけでなく講談もやっていたが、一向に芽が出ず、赤貧生活が続いた。当時の様子は『なめくじ艦隊』に詳しい。講談も含め芸名を15回変えたことでも有名。
戦争中、酒がたらふく飲めると聞いて6代目三遊亭圓生と共に満州巡業に出かけ、そのまま行方不明。戦後、引揚げてからはその自堕落で天衣無縫な芸風が人気を博し、流行噺家に。十八番に『火焔太鼓』、『唐茄子屋』など。与太郎や駄目亭主を演らせれば天下一と言われ、圓生をして「道場なら勝てるが、真剣で立会ったら私が斬られる」と言わしめた。
高座で酔って寝込み、また客も「志ん生、ゆっくり休めよ」と声を掛けたというなど、エピソードも多い。長男は10代目金原亭馬生、次男は3代目古今亭志ん朝、孫は女優池波志乃。

8代目桂文楽(かつらぶんらく)

志ん生の闊達な芸風の対照に、文楽の謹厳な芸風がある。李白と杜甫の間柄にも似ているが、両者は並んで昭和の落語界を支えた。
文楽の芸は緻密で芸術的であり、演目は少なかったが、特に『馬のす』の豆を箸でつまんで食べる食芸は絶品とされた。芸に対しては自分にも他人にも厳しく、傲岸なところもあった。本来は桂文楽の「六代目」に当るが、八は末広がりで縁起がいいということで、勝手に八代目と名乗った。代表的な演目は『明烏(あけがらす)』、『鰻の幇間(うなぎのたいこ)』等。
その芸は一点の狂いもなく行われるのが特徴だったが、1971年国立小劇場で『大仏餅』を口演中に登場人物の「神谷幸右衛門」の名前が出てこなくなり「もう一度勉強し直して参ります」として下がった。以後、高座に上ることなく没した。上野黒門町に住まいがあったため、「黒門町」とも呼ばれた。因みに文楽が会長であった落語協会も黒門町にある。

初代林家三平(はやしやさんぺい)

「よしこさーん」などの歌謡フレーズ、ギャグや駄洒落を取り入れたスタイルで、高度成長期に一世を風靡した落語家。客いじりが絶妙で、彼の寄席は常に爆笑の渦であった。落語とバラエティ番組の接点を切り開いたタレントとしても知られる。
父(7代目林家正蔵)に落語の手ほどきを受けるが、父の死後は嘗て父の弟子であった4代目月の家圓鏡(後の7代目橘家圓蔵)に師事する。

若い頃は大衆ウケする反面、芸が未熟と指摘もあったが、大病の後、芸は老成した。しかし間もなく肝臓ガンで死去。正蔵襲名は遂に適わず、柳家小三治や月の家圓鏡などの襲名の薦めも辞退し(5代目柳家小さん『咄も剣も自然体』より)、生涯一つ名で通した。享年54。代表的な演目は『源平』。

弟子として林家こん平や林家ペー等。息子に9代目林家正蔵(長男)、二代・三平(次男)、娘はタレント海老名美どり(峰竜太夫人)、泰葉(春風亭小朝元夫人)、妻はエッセイスト海老名香葉子(えびな かよこ)。

落語四天王(らくごしてんのう)

当時、消えかかっていた上方落語の復興に尽力した、3代目桂米朝・3代目桂春團治・6代目笑福亭松鶴・5代目桂文枝の総称。
1960年代にテレビを中心にして起こった演芸ブームで台頭した、東京の当時の若手落語家7代目立川談志・5代目三遊亭圓楽・3代目古今亭志ん朝・5代目春風亭柳朝の総称。(柳朝逝去後は8代目橘家圓蔵を加える。)
2代目桂枝雀(かつらしじゃく)
上方落語の立役者。神戸出身。元々は実弟と素人漫才でならしたが、大学時に落語に転向し、3代目桂米朝に入門、古典落語を修める。しかし古典の美学を究めるより、笑いを求めて精進の結果、「爆笑王」の異名を取る。
「緊張の緩和」によって笑いが起こるとした。弟子や妻子にも恵まれたが、路線の違いを巡って師匠と絶縁したり、晩年は芸に悩んでうつ病になった。『貧乏神』『茶漬け閻魔』など、創作落語も多い。

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