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言葉のくすり 渥美清(寅さん)ってどんな人?

渥美清ってどんな人?

本名 田所 康雄
たどころ やすお
別名 寅さん、風天(俳号)
生年月日 1928年3月10日
没年月日 1996年8月4日(満68歳没)
出生地 日本・東京府東京市下谷区
(現:東京都台東区)
職業 俳優、コメディアン
ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台
活動期間 1951年 – 1996年
配偶者 あり
家族 父:田所友次郎
母:田所タツ
兄:田所健一郎
主な作品
映画
『拝啓天皇陛下様』
『男はつらいよ』シリーズ(全48作)
『八つ墓村』
『幸福の黄色いハンカチ』
『キネマの天地』他
テレビドラマ
『渥美清の泣いてたまるか』
『男はつらいよ』他
受賞
・1988年 紫綬褒章
・1996年 国民栄誉賞

小林 信彦

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渥美 清(あつみ きよし、1928年3月10日 – 1996年8月4日)は、日本の俳優。本名、田所 康雄(たどころ やすお)。愛称は、寅さん、風天(俳号)

渥美清 来歴・人物

渥美清の生涯

1928年(昭和3年)3月10日に、東京府東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。

1934年11月、上野の板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。

欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。
1940年に板橋城山高等小学校に入学。第二次世界大戦中の1942年に巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。偶然にもこの日は渥美の17歳の誕生日であった。

卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。

1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。

中央大学経済学部入学後、船乗りを志して退学したが母親に猛反対されたため断念。

知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。

なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。”渥美”は愛知県の渥美半島から採ったとされる。

1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。
1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
1954年、肺結核で右肺を摘出しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。

1956年にテレビデビュー、1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー。
1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一、関敬六とスリーポケッツを結成。しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。

1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。
同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケにおいて、海に飛び込むシーンでは右肺を摘出していたため海に飛び込めず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。

当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、三国連太郎、丹波哲郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。

1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する。この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。

1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。この時期の主演作品としては、TBSのテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』(1966年)や映画『喜劇列車シリーズ』(喜劇急行列車、喜劇団体列車、喜劇初詣列車)(1967年~1968年)なども有名である。

1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到した。
1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹で映画を製作。これが予想に反し大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。

1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。
1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。

1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品は現在も続く人気番組土曜ワイド劇場の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。

映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。特に1977年『八つ墓村』が松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことは大きな岐路となる。

1979年(昭和54年)4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど~昭和のこころ 古賀政男~』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるにはいたらなかった。また、この時期、今村昌平監督が「復讐するは我にあり」の主役にオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている。

1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていた事もあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年(昭和63年)、紫綬褒章受章。
その後は、主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった、遺作は亡くなる直前まで出演した48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。

後年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。『男はつらいよ』42作目以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは少なくされた。晩年は、立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。44作目のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです。スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。

ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったという。体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。

また体調が悪化してからの作品を見ると46作では坂を上るのがきつく(実際に急な坂ではあるが)、47作では歌声が枯れ、第48作では座ったままほとんど動かなくなるなど痛々しい演技である。49作目は秋からクランクインが予定されていた。田中裕子がマドンナ役の予定だった。

病気については1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺に転移しているのがわかった。47作からは主治医からも出演は不可能だと言われていたが何とか出演。48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。
1996年7月に体調を崩して同月末に手術を受けたものの、癌の転移が広がり手遅れの状態だった。山田監督の弔辞によれば、病院で癌の手術が手遅れの状態だった後、病室で震えていたとの事である。また同年6月に49作の映画化の件で話し合い、肉を食べ撮影に意欲を燃やしていたとのことである。

1996年(平成8年)8月4日、転移性肺癌のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院にてこの世を去る。68歳没。「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」という渥美の遺言により、家族だけで密葬を行い、遺体は東京都荒川区内の火葬場で荼毘に付された。訃報は3日後の1996年8月7日に松竹から公表された。

そして8月13日には松竹大船撮影所で「寅さんのお別れの会」が開かれ、山田洋次が
5年前に渥美さんの病気を知り、予断を許さないのは知っていました。体の衰えが目立ち始めて、小島の急な坂を登るときは、とてもつらそうだった。この時、この陽気な男が、映画から手を引く日も近いと思っていました。そろそろ解放してあげたい、と思いながら、もう一作だけ、もう一作だけ、もう一作何とかと思って48作も撮ってきました。医師から、正月遺作となった映画に出演できたのは、奇跡といわれました。ああ、悪いことをしました。後悔しています。つらい思いをさせてすいませんでした。7月に入院して、肺の手術をした後、経過が思わしくなくて、ベッドに起き上がることも出来ず、うつむいたままと聞きました。何故そんなに苦しめたのか。27年間、映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。スタッフも幸せでした。心からお礼を申し上げます。

という弔辞を読み上げた。

世間では、渥美清の死を寅さんの死と捉えて報道された。死後、日本政府から渥美に国民栄誉賞が贈られた。『男はつらいよ』シリーズを通じて人情味豊かな演技で広く国民に喜びと潤いを与えたことが受賞理由。俳優で国民栄誉賞が贈られるのは、1984年に死去した長谷川一夫に次いで2人目である。

妻は熱心なカトリック信徒で、彼自身も、亡くなる直前に病床でカトリックの洗礼を受けていた事が明らかになっている。
渥美は亡くなるまで芸能活動の仕事をプライベートに持ち込まなかった。そのため、渥美の自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされていなかった。

渥美清 経歴についての異説

渥美清のプライベートは謎につつまれた点が多く、経歴にはいくつかの異説がある。小林信彦著の『おかしな男 渥美清』の略年譜によれば、1940年に志村第一尋常小学校を卒業後、志村高等小学校に入学する。1942年に卒業し、14歳で志村坂上の東京管楽器に入社するが退社し、その後は「家出をしてドサ回り」をしていたとのことである。

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巣鴨学園関係者によると、戦前の在籍記録は戦災により焼失しており、在籍の有無は公式にはなんとも言えないという。しかし、何人かのOBの証言によれば、在籍はしていたが、卒業はしていないとのことである。

渥美清 実像

「寅さん」の演技で見せる闊達さとは対照的に、実像は自身公私混同を非常に嫌い、他者との交わりを避ける孤独な人物だった。「男はつらいよ」のロケ先で、撮影協力した地元有志が開く宴席に一度も顔を出したことがない話は良く知られており、身辺にファンが近寄ることも嫌っていた。タクシーで送られる際も「この辺りで」と言い、自宅から離れた場所で降りるのを常としていた。

芸能界の関係者ともプライベートで交際することはほとんどなく「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友であった黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている[1]。実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという[2]。

プライベートでの交流が多かった数少ない芸能人として笹野高史、柄本明がいる(笹野と柄本は自由劇場で同僚でもあった)。2人とも「男はつらいよ」シリーズの共演者であった。芝居を見に行ったり、バーに飲みに行くこともあったという。笹野は「男はつらいよ 柴又より愛をこめて」以来山田作品の常連となるが、最初に山田監督に笹野を紹介したのは渥美自身であった。

渥美は藤山寛美を高く評価しており、寛美の公演のパンフレットには「私は藤山寛美という役者の芝居を唯、客席で見るだけで、楽屋には寄らずに帰れる。帰る道すがら、好かったなー、上手いなー、憎たらしいなあー、一人大切に其の余韻をかみしめる事にしている。」と書いていた。寛美も渥美が客席に来ていることを知ると、舞台で「横丁のトラ公、まだ帰ってこんのか。」と言うアドリブを発していた。[3]

原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることも多かった。

一方で非常な勉強家でもあり、評判となった映画や舞台をよく見ていた。しかし「寅さん」とは、まったく違ったスマートなファッションであったため、他の観客らには、ほとんど気づかれなかったという。
山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2,3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している[4]。

家族構成は妻と子供2人で、長男が公の場に顔を出すのは渥美の死後だった[5]。結婚式は親族だけでささやかに行い、仕事仲間など呼ばなかった。芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表する事はなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。結婚まで秘密にしていたため、没する数年前でも渥美が独身と思っていた人が多かったようである。渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は『新珠三千代さんごめんなさい。』の迷コメントを出した。

黒柳徹子はプライベートでも付き合いのある数少ない存在で、彼をお兄ちゃんと呼んでいたほか、夢であいましょうで共演していた時に熱愛疑惑が持ち上がったことがある。ちなみにその際それを報道したスポーツ新聞の紙面には、フランス座時代に幕間のコントで黒柳が小学生の頃いつも呼んでいたチンドン屋の格好をしていた時の写真が掲載された。これは当時マスコミにはその写真しかなかったためである。黒柳は1996年に開かれた「寅さん」とのお別れの会に出席したり、2006年は渥美が死んでから10年と節目の年であったためか渥美の事を話すこともしばしばあった。また森繁久彌は、渥美の才能に非常に目をかけ、渥美も森繁を慕っていたという。

2006年9月4日にNHKプレミアム10で放送された『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によると、松竹が映画の低迷期であったのも手伝い、突出して人気のあった「寅さん」のイメージを大事にしたいからと色々な企画を没にしたりして、それ以外の役柄に恵まれなかった。増村保造の映画『セックス・チェック 第二の性』を元にして作中男だと疑われるスポーツ選手の女性が、本当に男だったという主演映画などが没になったアイディアの中にあった。

なお永六輔とは、少年時代から旧知の仲であり、永六輔によると渥美は永も所属していた不良グループのボスであったという。更に永の言葉によると、渥美が役者を目指す様になったのにはある刑事の言葉があると言う。曰く、ある時、渥美が歩道の鎖を盗みそれを売ろうとして警察に補導された事があった。その時の刑事に、「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われた事が役者を目指すきっかけになったとの事である(上記、『渥美清の肖像・知られざる役者人生』によれば、テキ屋稼業に没頭していた頃、浅草の小屋から声をかけられそれが転機のキッカケとなったとされている)。

山田洋次系以外のスタッフでは、脚本家鈴木尚之が節目節目で招かれており、信頼が厚かったことを伺わせる。ただし、渥美自身が企画し鈴木が執筆した、1972
年春公開の『あゝ声なき友』が不振に終わり、厳格な今井正監督の現場になじめなかったこともあって、これを境に渥美は山田作品に専心するような形となる。その5年後の『八つ墓村』が記録的大ヒットにもかかわらず、松竹と角川書店(角川春樹)の確執からシリーズ化できなかったことがこの流れを決定づけた。

脚本家早坂暁は大学時代に銭湯で渥美清と知り合い、何度もプライベート旅行に行くなど親友となった。渥美は、早坂との旅行を大変楽しみにしており、渥美の死後発見された晩年の手帳には「……家族で旅行に行こう。ギョウさん(早坂暁の暁を音読みしたもの)も一緒に……」と綴ってあった。 2006年に放送された「渥美清の肖像~知られざる役者人生~」によると、早坂は渥美が大変才能のある役者であるのにもかかわらず、「寅さん」以外の役をほとんど演じられなかったことを危惧し、渥美主演の作品を数作企画していたが、実現しなかったそうである。 しかし、渥美には、初期のテレビドラマ「泣いてたまるか」や、上記「土曜ワイド劇場」の第1回作品の「田舎刑事」シリーズなどの脚本を書いており、いずれも「寅さん」ではない渥美の魅力が引き出された名作となっている。

長男田所健太郎は、ニッポン放送の入社試験の際、履歴書の家族欄に『父 田所康雄 職業 俳優』と書いたことから、採用担当者は大部屋俳優の息子と思っていた。後に渥美清が彼の父親として来社したため、社内は騒然となった[6]。
晩年は俳句を趣味としていて『アエラ句会』(AERA主催)において「風天」の俳号でいくつかの句を詠んでいる。森英介『風天 渥美清のうた』(大空出版、2008年、文春文庫 2010年)に詳しく紹介されている。

渥美清 主な出演

渥美清 映画

おトラさん大繁盛(1958年)
南の島に雪が降る(1961年)
投資令嬢(1961年)
大江戸評判記 美男の顔役(1962年)
あいつばかりが何故もてる(1962年)
若き日の次郎長 東海道のつむじ風(1962年)
おかしな奴(1963年)
つむじ風(1963年)
拝啓天皇陛下様(1963年)
無宿人別帳(1963年)市兵衛
太平洋の翼(1963年)丹下一飛曹
散歩する霊柩車(1964年)
馬鹿まるだし(1964年)
続・拝啓天皇陛下様(1964年)
拝啓総理大臣様(1964年)
風来忍法帖(1965年)
ブワナ・トシの歌(1965年)
沓掛時次郎 遊侠一匹(1966年)
喜劇急行列車(1967年)
喜劇団体列車(1967年)
父子草(1967年)
喜劇初詣列車(1968年)
燃えつきた地図(1968年)
白昼堂々(1968年)
スクラップ集団(1968年)
喜劇 爬虫類(1968年)
でっかいでっかい野郎(1969年)
喜劇 女は度胸(1969年)
男はつらいよシリーズ(1969年 – 95年、97年、全49作) – 車寅次郎
トラ・トラ・トラ!(1970年)※日本公開版のみ
家族(1970年)
喜劇 男は愛嬌(1970年)
あゝ声なき友(1972年)
故郷(1972年)
砂の器(1974年)ひかり座の支配人
ビューティフル・ピープル ゆかいな仲間(1974年)日本語版ナレーター
友情(1975年)
同胞(1975年)
八つ墓村(1977年)
幸福の黄色いハンカチ(1977年)渡辺係長
皇帝のいない八月(1978年)
遙かなる山の呼び声(1980年)
キネマの天地(1986年)喜八
二十四の瞳(1987年)ナレーター
ダウンタウンヒーローズ(1988年)ナレーター
学校(1993年)八百屋の親父

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渥美清 テレビ

第14回NHK紅白歌合戦(1963年) 応援ゲスト
四重奏(1964年、日本テレビ)
渥美清の泣いてたまるか
大和魂くん
東芝日曜劇場(多数出演)
人形佐七捕物帳(1965年、NHK)
おんなの劇場 出雲の女(1969年、フジテレビ)
おれの義姉さん(1970年、フジテレビ)
こんな男でよかったら(1973年、よみうりテレビ)
ヨイショ(1974年6月 – 11月、TBS)
天皇の料理番(1980年10月 – 1981年3月) ナレーション
田舎刑事 (1977年、テレビ朝日)
「幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜」(古賀政男役、1979年)
木曜ゴールデンドラマ「花嫁の父」(1981年)
花へんろシリーズ(1985年 – 1988年) ナレーション

渥美清 ラジオ

『渥美清 ローマンス劇場』
『渥美清の男性諸君』
いずれも「一慶・美雄の『夜はともだち』」内包番組(TBSラジオ/1976年~1978年)

渥美清 CM

ハナマルキ
エーザイ
ブリヂストン 新・回転理論技術「DONUTS(ドーナツ)」 専属キャラクター[7]
ロート製薬 「パンシロン」[8]
サントリー「サントリー生ビール ナマ樽」
中外製薬「バルサン」
いすゞ自動車 「エルフ」
日本アイ・ビー・エム 「IBMマルチステーション5550」
日本テレコム
朝日新聞 [9]
パイオニア「DVDレコーダー」(没後に製作)

渥美清 シングル

泣いてたまるか(TBS連続テレビドラマ「泣いてたまるか」主題歌)(B面:若いぼくたち/ミュージカル・アカデミー)(1966年5月10日)
オー大和魂(TBS連続テレビドラマ「大和魂くん」主題歌)(B面:雨の降る日は天気が悪い)(1968年10月)
男はつらいよ(フジテレビ連続テレビドラマ「男はつらいよ」主題歌、松竹映画「男はつらいよ」主題歌)(B面:チンガラホケキョーの唄)(1970年2月10日)
ごめんくださいお訪ねします(松竹映画「あゝ声なき友」主題歌)(B面:あゝ声なき友)(1972年3月25日)
さくらのバラード(歌:倍賞千恵子)(B面:寅さんの子守唄)(1972年4月)
こんな男でよかったら(B面:ひとは誰でも)(よみうりテレビドラマ「こんな男でよかったら」)(1973年4月5日)
いつかはきっと(掛け声:山田パンダ)(TBSテレビドラマ「ヨイショ」主題歌)(B面:遠くへ行きたい)(1974年8月25日)
寅さん音頭(B面:赤とんぼ)(1975年7月5日)
祭りのあと(B面:駅弁唱歌)(1975年9月5日)
渥美清の啖呵売I(B面:渥美清の啖呵売りⅡ)(1976年6月25日)
浅草日記(B面:すかんぽの唄)(1977年6月25日)
今日はこれでおしまい(1977年10月25日)
DISCO・翔んでる寅さん(B面:寅さん音頭)(1979年7月25日)

渥美清 アルバム

渥美清が歌う哀愁の日本軍歌集(1968年12月5日)
噫々戦友の詩(きけわだつみのこえ)より(1971年)
男はつらいよフーテンの寅と発します!(1971年11月)
男はつらいよ名場面集(第一集)
男はつらいよ名場面集(第二集)
男はつらいよ名場面集(第三集)(1974年)
渥美清ベストヒット28(1976年)

渥美清 著書

『きょうも涙の日が落ちる 渥美清のフーテン人生論』 (展望社、2003年)
『渥美清わがフーテン人生』「サンデー毎日」編集部編 (毎日新聞社、1996年)
『赤とんぼ 渥美清句集』 森英介編 (本阿弥書店、2009年)

渥美清 参考文献

関敬六 『さらば友よ』(ザ・マサダ、1996年)
渥美清の肘突き 人生ほど素敵なショーはない (福田陽一郎、岩波書店)
おかしな男 渥美清(小林信彦、新潮文庫)
知られざる渥美清(大下英治、廣済堂文庫)
渥美清 浅草・話芸・寅さん(堀切直人、晶文社)
拝啓渥美清様(読売新聞社会部、中公文庫)
渥美清の伝言(NHK同制作班編 KTC中央出版)
渥美清晩節、その愛と死 (篠原靖治、祥伝社)

渥美清 親族

田所健太郎
長男。株式会社ニッポン放送に所属していたラジオディレクター。主な担当番組に伊集院光のOh!デカナイト、(有)チェリーベルがある 。現在は株式会社ニッポン放送を退社し、フリーのラジオディレクター。
山岡和美
元ニッポン放送アナウンサー、長男の妻。

渥美清 渥美清を演じた、ものまねをした人物

南原清隆-ドラマ「渥美清物語」で主演。
原一平-寅さんのものまねは、渥美本人も生前から認めていた、唯一の渥美清公認ものまね芸人。寅さんのものまねをする際に着用する衣装は渥美本人が映画で実際に使っていたのを譲り受けた物である。
佐々木つとむ-1970年代に人気を博した。
フランクさな寅(フランクさな寅ブログ) 地元ですら知る人ぞ知る「広島の寅さん」。TSS「親子笑劇場電太郎一家」(ローカルミニドラマ。既に終了)にドラ猫のドラ役で出演していた。
野口陽一 山田洋次監督公認。
山口智充(「ワンナイR&R」にて)

渥美清 脚注

^ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想より)
^ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想より)
^ 小林信彦「おかしな男 渥美清」
^ 「男はつらいよ DVD BOX」、監督の特典インタビューにて(2008年収録)
^ NHK『100年インタビュー』(山田洋次の回想)
^ 余談だがギタリスト布袋寅泰が同じマンションに住んでいたことがあり、バンドのツアーに向かう布袋が偶然エレベーターの乗り口であった際、渥美から「旅ですか?」と話しかけられ、とっさに「はい。北へ」と答えたのをきっかけに、正月に「つまらないものですが、部屋の隅にでも飾ってやってください。」と、『男はつらいよ』のカレンダーを部屋まで届けてくれたという(布袋のブログの記述による)。
^ 1995年から逝去後の1997年まで、「ニッポンのタイヤが変わります」のキャッチフレーズでCM出演していた。またこのCMは放映時期の季節に合わせて、渥美の服装と背景が変化した。
^ 幼少時代の沢田聖子と共演(父親役の渥美清が沢田を肩車するシーン)したバージョンがあった。ちなみに渥美は前出のブリヂストンのCMと同じく逝去直前に「パンシロン新胃腸薬」のCMに復帰出演していたことがある。
^ CMのキャッチコピーは「歴史は、あっちこっちでつくられる。」。コピーライターの神様と称される仲畑貴志の手によるものである。

言葉のくすり 寅さん 「男はつらいよ」1969年年・昭和44年)の映画版第一作

「男はつらいよ」1969年年・昭和44年)の映画版第一作です。


「私、生まれも育ちも東京葛飾柴又です
姓は車、名は寅次郎、人呼んでふうてんの寅と発します、
皆様ともどもネオン(neon)ジャンク(junk)高鳴る大東京に
仮の住居罷りあります、不思議な縁持ちまして
たったひとりの妹のために粉骨砕身、バイに励もうと思っております、
西に行きましても東に行きましても、
とかく、土地土地のオアニイサンオアネエサンに御厄介かけがちなる
若造でござんす、以後見苦しき面体お見知りおかれまして
恐惶万端引き立って、宜しくお頼み申します」


男はつらいよ (映画)映画版第一作

渥美清


監督 山田洋次
脚本 山田洋次
森崎東
製作 上村力
出演者 渥美清
倍賞千恵子
光本幸子
笠智衆
志村喬
森川信
前田吟
津坂匡章
佐藤蛾次郎 他
音楽 山本直純
主題歌 『男はつらいよ』渥美清
配給 松竹
公開 1969年8月27日
上映時間 91分
製作国 日本
言語 日本語
興行収入 1億1千万円
次作 続・男はつらいよ

『男はつらいよ』(おとこはつらいよ)は、1969年8月27日に公開された日本映画。男はつらいよシリーズの1作目。
ロケ地、京都、奈良。上映時間は91分。客動員は54万3000人。配給収入は1億1000万円。同時上映は『喜劇・深夜族』(伴淳三郎)

男はつらいよ 作品概要

松竹が、そして日本映画界が誇る、堂々27年にわたる下町人情大河喜劇映画シリーズの記念すべき第1作。

男はつらいよ あらすじ

20年振りに故郷、東京は葛飾柴又に帰ってきた車寅次郎(渥美清)。丁度庚申の祭りの最中で、早速祭りに参加する寅次郎。そんな中、懐かしいおいちゃん(森川信)、おばちゃん(三崎千恵子)や妹さくら(倍賞千恵子)に涙の再会を果たす。翌日、さくらの見合いに出席した寅次郎だが、酔った挙句の大失態。見合いをぶち壊した寅次郎はおいちゃんらと大喧嘩し、柴又を去っていく。その後、寅次郎は旅先の奈良で冬子(光本幸子)という女性に出会う。すっかりホの字の寅次郎は、冬子と共に柴又へ。柴又へ帰った寅次郎は、ひとつのカップルの縁談を進める。これが裏の印刷工博(前田吟)と妹さくらであった。二人はあっという間に結婚へと進むが、肝心の寅次郎の恋は儚くも散ってしまうのであった。

男はつらいよ キャスト

車寅次郎:渥美清
車さくら:倍賞千恵子
冬子:光本幸子
御前様:笠智衆
諏訪飈一郎:志村喬(特別出演)
車竜造:森川信
諏訪博:前田吟
川又登:津坂匡章
源公(源吉):佐藤蛾次郎
司会者:関敬六
車つね:三崎千恵子
たこ社長(梅太郎):太宰久雄
部長:近江俊輔
鎌倉道男:広川太一郎
道男の父:石島戻太郎
道男の母:志賀真津子
鎌倉郁子(道男の妹):津路清子
川甚の仲居:村上記代
工員1:石井愃一
工員2:市山達己
香具師1:北竜介
香具師2:川島照満
たこ社長の妻:水木涼子
ご近所さん、結婚式の客:谷よしの
スタッフ [編集]

原作、監督 – 山田洋次
製作 – 上村力
企画 – 高島幸夫、小林俊一
脚本 – 山田洋次、森崎東
撮影 – 高羽哲夫
美術 – 梅田千代夫
音楽 – 山本直純
照明 – 内田喜夫
編集 – 石井巌
録音 – 小尾幸魚
調音 – 松本隆司
監督助手 – 大嶺俊順
装置 – 小野里良
進行 – 池田義徳
製作主任 – 峰順一

渥美清


男はつらいよ 受賞

第24回毎日映画コンクール監督賞/山田洋次
同・男優賞/渥美清
キネマ旬報BEST10第6位
シナリオ作家協会シナリオ賞/森崎東
第20回芸術選奨・文部大臣賞/山田洋次
全国興行環境衛生同業組合第14回ゴールデングロス賞特別感謝賞

言葉のくすり 寅さん 

TV版「男はつらいよ」第1回放送で寅さんが満員電車に乗り込みます。

「おい、押すなよ押すなよ、押しても駄目なら引いてみな、って言うだろう
人の本皮のおめ革靴の先っちょ踏みやがって
別に俺は坊主になって謝れって言ってんじゃねえんだよ、
どうもすみません、ぐらい言ったって、口は減らねえだろう
かっこいい細いボンズが泣くよ、おい
おう、何だこりゃ、えんこしちゃった、ああ、ごめんよねえちゃん
あー、熱いな東京は、まだ蒸さあ」

昔から東京は、熱かったんですね。


渥美清¥ 2,927

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名言 人生 諸葛亮

人生とは、困難との戦いの連続である。
諸葛亮(政治家・軍略家)

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諸葛亮とは?

諸葛 亮(しょかつ りょう)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。

司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。 妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕などがいる。

諸葛亮 略伝

諸葛亮 書生時代

琅邪郡陽都(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが、出生地は不明。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊で、父は諸葛珪。泰山郡の丞(郡の副長官)を勤めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。生母の章氏も同様に幼い時に死去していたが、父は後に後妻の宋氏を娶っている。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。後漢の献帝と生没年が同年である。

まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『三国志』本伝では、従父・諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓(朱儁の子)が豫章太守として派遣され、その後劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安二年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉繇に送られたとなっている。

その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで「梁父吟」を歌っていたという。この時期には自らを管仲・楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はいなかった。ただ親友の崔州平(諱は不詳、太尉・崔烈の子、崔均(崔鈞?)の弟)や徐庶だけがそれを認めていたという。

また、この時期に地元の名士・黄承彦の娘を娶ったようである。これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。
舅の黄承彦の妻は襄陽の豪族蔡瑁の長姉であり、蔡瑁の次姉は劉表の妻であるため、蔡瑁・劉表は義理の叔父に当たる。また、諸葛亮の姉は龐徳公の息子の妻であり、龐徳公の甥の龐統も親戚である。

諸葛亮 三顧の礼

この頃華北では、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。
諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。

人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと幕下に迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「臥龍」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。

また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。
この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを孔明の出廬と呼ぶ。

諸葛亮 赤壁の戦い

建安13年(208年)、劉表陣営では劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後ではしごを取り外して、諸葛亮に助言を求めた。

観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉琦はこれに従い、その頃ちょうど江夏(現在の湖北省武昌)太守の黄祖が孫権に殺されており、空いていたこの地に赴任する事にした。劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。

同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。

孫権陣営は情勢観察のため劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛を派遣してきていた。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。この際、孫権から「劉豫州(劉備)はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか。」と問われ、諸葛亮は答えた、「田横は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして劉豫州(劉備)は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。どうして曹操の下につくことなどできましょうか。」[1] その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。

諸葛亮 入蜀

戦後、劉備たちは孫権・曹操の隙を衝いて荊州南部の4郡を占領した。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された龐統が劉備陣営に加わった。

建安16年(211年)、荊州の次に取る予定であった益州の劉璋より、五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は龐統・黄忠・法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は張飛・趙雲らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定すると、劉備と共に成都を包囲した(入蜀合戦)。

建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。また伊籍・法正・李厳・劉巴とともに蜀の法律である蜀科を制定した。

諸葛亮 夷陵の戦い

その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有したが、荊州の留守をしていた関羽が呂蒙の策に殺され、荊州は孫権に奪われた。
劉備の養子の劉封が孟達・申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかったことと、孟達の軍楽隊を没収したことを責めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。

建安25年(220年)には曹操が死去し、その子の曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。翌年、劉備はこれに対抗して成都で即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。
劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は領土の一部を返還して和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった(夷陵の戦い)。この戦いの後、諸葛亮は「法正が生きていれば、これ程の大敗にはならなかった筈だ」と嘆いた(法正は220年に死去している)。

劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に死去する。死去にあたり劉備は諸葛亮に対して「君の才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし後継ぎ(=劉禅)が補佐するに足りる人物であれば、補佐してくれ。もし、後継ぎに才能がなければ、君が自ら皇帝となりなさい」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。 また、劉備は臨終に際して諸葛亮に向い、「馬謖は、言葉が実質以上に先行するから、重要な仕事をさせてはいけない。君はそのことを察知しておれよ」と言い残した。[2]

諸葛亮 益州南部の平定

劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯・開府治事・益州刺史になり、政治の全権を担った。 諸葛亮は孫権が劉備の死去を聞けばたぶん異心を抱くだろうと深く心配していたが、鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整え、孫権は魏との関係を絶ち、蜀と同盟し、張温を派遣して返礼させた。さらに、魏に対する北伐を企図する。魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華歆・王朗・陳羣・許芝、同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に「正議」を発表し彼らを批判した。

益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こすが、諸葛亮は225年に益州南部四郡を平定。この地方の財物を軍事に充てた。この時、七縱七禽の故事があったともいわれるが、本伝には見えない(詳しくは孟獲の項を参照)。

諸葛亮 北伐

清の時代、想像で描かれた諸葛亮と司馬懿
建興5年(227年)、諸葛亮は北伐を決行する。北伐にあたり上奏した「出師表」は名文として有名であり、「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章規範』の評語)と称賛された。
魏を攻める前年、諸葛亮は、以前魏へ降伏した新城太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。孟達は魏に降った後、曹丕に重用されていたが、建興4年(226年)の曹丕の死後は立場を失い、危うい状況にあった。諸葛亮はこれを知ると孟達に手紙を送り、孟達の方も返書を出した。さらに申儀の讒言や司馬懿の疑惑を恐れた孟達は、魏に反乱を起こそうとした。しかし孟達は司馬懿の急襲を受けて討ち取られた[3]。

翌建興6年(228年)春、諸葛亮は漢中より魏へ侵攻した。魏延は、自らが別働隊の兵1万を率い、諸葛亮の本隊と潼関で合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを許可しなかった[4]。魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。

諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、郿を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。この動きに南安・天水・安定の3郡(いずれも現在の甘粛省に属する)は蜀に寝返った。魏はこの動きに対して張郃を派遣した。諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、かねてから才能を評価していた馬謖を任命したが、馬謖は配下の王平の諫言を無視して山上に布陣し、張郃により山の下を包囲され、水の供給源を断たれて敗北した。街亭を失ったことで蜀軍は進軍の拠点を失い、全軍撤退を余儀なくされた(街亭の戦い)。撤退時に諸葛亮は西県を制圧して1000余家を蜀に移住させた。

撤退後、諸葛亮は馬謖らを処刑したほか(「泣いて馬謖を斬る」の語源)、自らも位を3階級下げて右将軍になったが、引き続き丞相の職務を執行した。
同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行し、その際「後出師表」を上奏したとされるが[5]、偽作説が有力である。二度目の北伐では陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていたことや、守将の郝昭の奮戦により、陥落できないまま食糧不足となり撤退した。撤退時に追撃してきた魏将王双を討ち取っている(陳倉の戦い)。
翌年(229年)春、第3次の北伐を決行し、武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。魏将郭淮が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰した。
建興9年(231年)春2月、諸葛亮ら蜀軍は第4次の北伐を行い、魏の祁山を包囲すると別働隊を北方に派遣したが、張郃ら魏軍が略陽まで進軍してくると、祁山まで後退した。司馬懿が率いる魏軍は祁山を開放するために、司馬懿が諸葛亮の軍を、張郃が王平の軍を攻撃したが、撃退された。蜀軍は局地的に勝利したものの長雨が続き食糧輸送が途絶えたため撤退した。撤退時に追撃してきた魏の張郃を伏兵を用いて射殺している[6]。 食糧輸送を監督していた李平(李厳から改名)は、糧秣の不足を伝えて諸葛亮を呼び戻させる一方、軍が帰還すると「食料は足りているのになぜ退却したのだろうか」と驚いたふりをして責任転嫁をはかろうとした。しかし諸葛亮は出征前後の手紙を提出して李平の矛盾をただしたため、李平は自分の罪を明らかにした。そこで彼を庶民に落として流罪にした。

建興12年(234年)春2月、第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。しかし、同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し諸葛亮の挑発に乗らなかった。諸葛亮は病に倒れ、秋8月(『三国志演義』では8月23日)、陣中に没した(五丈原の戦い)。享年54。

諸葛亮 死後
諸葛亮の死後、蜀軍は全軍退却した。この時、魏延は楊儀の指揮下に入ることを拒否して争いを起こしたが、結局楊儀に殺された。蜀軍が撤退した後、司馬懿はその陣地の跡を検分し、「天下奇才也」(天下の奇才なり)と驚嘆した。
諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、棺を入れるだけの小規模なもので、遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。

諸葛亮が死去の報を聞いた李厳(李平)は、「もうこれで(官職に)復帰できる望みは無くなった」と嘆き、程なく病を得て死去した。同様に、僻地へ追放されていた廖立も、彼の死を知るや、「私は結局蛮民になってしまうだろう」と嘆き涙を流した。
諸葛亮の死の直後、各地で霊廟を建立したいという願いが出たが、朝廷は礼の制度に背くとして許可しなかった。また後に成都に諸葛亮の廟を建立すべきだとの意見も提出されたが、劉禅はこれを許可しなかった。しかし、民衆や異民族は季節の祭りを口実に、諸葛亮を路上で勝手に祀ることがあとを断たなかった。結局、習隆・向充の上奏を受け、景耀6年(263年)に成都ではなく沔陽に廟が建立された[7]。

諸葛亮 評価

諸葛亮 陳寿の評

『三国志』の撰者の陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。

しかし、その一方で「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからだろうか」とも書いており、政治家として有能であったと評しつつ、軍人としての評価については慨嘆するに留まり、やや言葉を濁した形になっている。

また、『三国志』に収録されている「諸葛氏集目録」で陳寿らは「諸葛亮は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなく、敵のほうが兵数が多かったので、魏に対する北伐は成功しなかった」と評している[8]。
諸葛亮が奇策を用いなかったことについては、「古来より兵を出して奇計を使わず危険を冒さず成功した者などいない。諸葛孔明の用兵は奇計を使えなかった所に欠点がある。…孔明に功を挙げられないのは、そもそも予想がつくことであり、仲達を必要とすることもない」(王志堅『読史商語』)など批判する意見もある一方で、
「蜀がもともと弱国で危ういことを知っていたから、慎重堅持して国を鎮めたのだ」(傅玄『傅子』)
「主君が暗愚で敵国が強大であるので(魏を一気に滅ぼす)計画を変更して蜀を保持しようとしたまでのことだ」(王夫之『読通鑑論』)
「諸葛公はリスクが大きい計略だから用いなかったのではない。大義を標榜した出兵だったから策謀や詭計を用いなかったのだ」(洪邁『容斎随筆』)
など様々に擁護する意見もあり、にぎやかに議論が行われた。

陳寿の評について「彼の父が諸葛亮によって処罰されたため、評価を厳しくしたのだ」という説が『晋書』陳寿伝に載るが、実際の『三国志』の記述は公正そのものである。(詳しくは陳寿#陳寿への非難の項を参照)[9]。

諸葛亮 その他の評価

諸葛亮を評したものは、前述の司馬懿と陳寿のほか、
裴松之:「諸葛亮が魏に仕えて能力を発揮していたら、陳羣や司馬懿でも対抗できなかっただろう」
杜甫:「伊尹や呂尚に伯仲し、天下がその指揮に服したならば蕭何や曹参も問題にならなかっただろう」(「詠懐古跡」其の五)
蘇軾:「強大な曹操に対して、自らの内の忠信の心のみをもって対抗した」(『東坡全集』前集巻43「諸葛亮論」)
朱熹:「孟子以降の人物としては張良と諸葛亮がいるのみである」(『朱子語類』巻163・歴代3)
等、数多い。

裴注所引の『袁子』は「諸葛亮は基本を守る人間で、状況の変化に対応するのは得意ではなかった。だから不得手な面(状況の変化に対応する事)で無理をしなかったのである。不得手な点を知って無理をしない事こそ賢者の偉大なところである」と評している[10]。

蜀の費禕は姜維に「我々は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。丞相でさえ中原を平定できなかったのだ。我らなどでは問題外だ。功業樹立は能力のある者の到来を待とう」と語り、諸葛亮を賞賛している。
西晋の司馬炎は「(諸葛亮を)自分の補佐にしていれば今日の苦労はなかったであろう」と宰相としての諸葛亮を賞賛している(諸葛亮伝・裴注所引『漢晋春秋』)。
北魏の崔浩は「曹氏と天下を争う事もできず劉璋から国を奪い辺境で皇帝を僭称させた」と極めて辛口の評を述べている(『魏書』毛脩之伝)。

劉璋が支配していた益州を奪ったことに関しては、蘇軾は「劉璋をだまし討ちにし、荊州に連れ去った事で天下の声望を失った。これでは曹操と変わる所が無い。劉備と曹操では才能・兵力・領土に大きな差があり、忠信の心のみが勝っていた。(劉璋をだまし討ちにして)これを失ってから北伐の大義と唱えても上手く行くはずが無い」と述べている(前掲「諸葛亮論」)。これに対し、明代の学者・王世貞は、劉璋を討つ事を劉備に勧めたのは諸葛亮ではなく龐統・法正である事、また劉焉は漢朝からの独立を企図した叛臣とみるべき存在であり、子たる劉璋を討つ事は正当化される事などを理由として反論している(『読書後』巻2「書蘇子瞻諸葛亮論後」)。
巴蜀では死後も永くその統治を慕い、懐かしんだ。死後、廟の建立を求める声が各地から挙がり、特別に議して沔陽に立てられた(『襄陽記』)。

東晋の武将桓温が347年に蜀の成漢を滅ぼし入蜀を果たした際、諸葛亮が生きていたときに小吏を勤めていたという百歳をこえる老人に対し、桓温が「諸葛丞相は、今でいえば誰と比べられるか?」と問うた所、「諸葛丞相が存命中のときはそれほど特別なお方のようには見えませんでした。しかし諸葛丞相がお亡くなりになられてからは、あの人のような人はもういらっしゃらないように思います」と答えたという(『説郛』)。なお、桓温は簡文帝臨終の際に禅譲を考えていたことから、簡文帝に「諸葛亮や王導のように皇太子(孝武帝)を補佐してほしい」と遺詔された。

唐代の文人・孫樵は「武侯(孔明)が死んでほとんど500年になろうとしているが、今に至るまで梁漢(蜀)の民はその事績を歌にうたい、廟に祭る者あるが如し。その民に愛されることかくの如く久しい」と『刻武侯碑陰』に書く。
東晋の習鑿歯は、かつて劉備が「馬謖に重事を任せてはならない」といましめていながら、諸葛亮が北伐に際し馬謖を将に起用して大敗し、彼を処刑してしまったことを踏まえて、「人を見る目という点で大失敗を犯し、聡明な君主のいましめに背くことになり、人を裁く上で的を外し、有益な人物を殺すこととなった」とし、「中国を併呑できなかったのも当然のことではなかろうか」と厳しく断じている。しかしその一方李厳や廖立を廃しながらも、その二人に恨みがましい言葉どころかその死を嘆かせた事をあげ、「諸葛亮の刑罰の行使がよく的を射ていたといってよく、秦・漢以来絶えて無かったことである」と法の厳正さを賞賛している。

中国文学翻訳家の土屋文子が1993年に『歴史読本』誌上「現代中国の諸葛孔明批判」[11]において発表したところによれば「文化大革命が終了した後の一九八〇年代前半は、中国の史学研究がいわゆる儒教闘争史の頚木から解放され、著しく活性化した時期であった。」「諸葛亮個人に関するものに限ってみても、一九八〇年から一九八五年までの五年間に全国でおよそ一五〇篇にものぼる論文が発表されているが、これは文革以前の一七年間における累計の約三倍に相当する数字である。」このことから、これを「『諸葛亮研究史における繁栄と収穫の時期』であったといってよいだろう」とし、「八〇年代に入って発表された論文の中には、これまでは諸葛亮の功績として評価されてきた事項に、新たな疑問と批判を投げかける、いわば諸葛亮否定論といった風潮が生じている。」と指摘し、こうした論文に対して「こうした批判的風潮は、何もいたずらに諸葛亮をおとしめるために起こったものではなく、論者たちはこのような過激な手法を手がかりとして、諸葛亮に対する従来の一方的な賛美から脱却し、新たなアプローチを試みているのである。」としている。

『三国志演義』中の諸葛亮


京劇の諸葛孔明(俳優は魯大鳴氏)。扮装や化粧は「三国志演義」における人物描写をふまえている。

小説『三国志演義』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳(劉備)と孔明(諸葛亮)のみである(このほか関羽も字の「雲長」や「関公」などと呼ばれて「関羽」と記されることはない)。
『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮が白い輿に乗り、葛巾をかぶり羽扇を手に軍を指揮したと描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、綸巾を戴き羽扇を手にして四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。この描写については批判もあり、魯迅などは「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている」と述べている。

諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点を挙げる。
『演義』では曹操が南下をもくろみ、夏侯惇に10万の兵を付けて派遣するが、諸葛亮の作戦でこれに大勝した、またこの時に関羽と張飛が諸葛亮に対し反抗したが、孫武の策を使い従わせた、となっているが、実際にはこの戦いは諸葛亮が劉備軍に参加する前の話である。

赤壁の戦いに於いて、前述の通り諸葛亮はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては重要な役割を演じている。
非戦論を主張する張昭ら呉の重臣達と論戦し全て言い負かし沈黙させる。

非戦論に傾いていた孫権・周瑜を説得して交戦に向かわせる(『三国志』に徴すれば、周瑜は最初から抗戦を主張していた,田横の最後を例に挙げ孫権を説得している)。
戦いが始まってから周瑜は諸葛亮の才能を恐れるようになり、諸葛亮に対して10日で矢10万本を手に入れろと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、諸葛亮は霧の出た夜に曹操軍に夜襲を仕掛け、曹操軍が放った矢を鹵獲して帰った(裴松之注に見られる孫権の逸話を利用したもの)。

曹操軍を火攻めにすると決まったものの北西の風しか吹かず、このままでは火を点けてもその火が自分達に返ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで諸葛亮は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたことになっている。
赤壁の戦いでの敗戦後、曹操の敗軍を旧恩により見逃した関羽を軍律に照らし斬ろうとするも、劉備のとりなしで免じる。

赤壁以後の荊州争奪戦に於いて、周瑜は曹操の残党軍を攻めてこれを打ち破るが、諸葛亮はこの隙を突いて曹操軍の城を占領し、諸葛亮に先んじられた事で怒った周瑜は持病が悪化する。その後、周瑜は蜀を取るからと偽って荊州に入り、隙を突いて荊州を占領しようと図ったが、全て諸葛亮に看破され、再び怒った周瑜は「既生瑜、何生亮」(天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!)と叫び、そのまま持病が悪化して死去したとなっているが、これらも『三国志』本伝にはない。
北伐で馬謖の失策により蜀軍が総崩れで敗北し、魏軍の追っ手の司馬懿らを目の前に諸葛亮自らが城壁の上で琴を弾く「空城の計」を使い、城壁の裏に大軍がいると勘違いした司馬懿が諸葛亮を恐れて撤退した。これも『演義』の創作である(史実では趙雲が曹操に対して使い、諸葛亮は趙雲を評価した)。

『演義』では北伐中、諸葛亮が魏延の危険性を察知し、追撃してきた司馬懿を谷に誘い込んで魏延共々焼き殺そうとしたが、雨が降ったことで失敗する。その事が原因となって魏延をなだめるため「馬岱が自分の命令を守らなかったための手違い」として処理し馬岱を一兵卒に落とした[12]。

最後の北伐に於いて、病状が悪化した諸葛亮は幕内に祭壇を築いて寿命を延ばす祈祷を行うが、唐突に幕内に入ってきた魏延がこの祭壇を壊してしまったために祈祷に失敗し、死去する。諸葛亮の死の時に大きな流星があり、司馬懿はこれを見て諸葛亮の死んだ事を悟り、蜀軍に対して総攻撃をかけようとする。ところが蜀軍には諸葛亮の姿があり、これに狼狽した司馬懿は慌てて引き上げる。だが実はこの諸葛亮は木像であったと描いている。後に現地の人間は「死せる孔明、生ける仲達(司馬懿の字)を走らす」と言ったという(この台詞は裴注に引く『漢晋春秋』に見えるが、木像に狼狽したというのは演義の創作である)。

諸葛亮 著作等

『三国志』諸葛亮伝では、「諸葛亮は創造力があった」「諸葛亮の言葉・布告・書簡・上奏文には見るべきものが多くあった」と諸葛亮の創造性と文才を高く評価している。
諸葛亮の著作としてはもちろん「出師表」が最も有名である。漢詩などはまったく残しておらず、その他の文章も全て政治的なことに関する文章である。『三国志』中に引用されているものとして「出師表」の他には李厳を弾劾する表、廖立を弾劾する表などがある。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』なる書物があったが現存していない。

「後出師表」は『三国志』本伝に見えず、呉の張儼の著作『黙記』に収録されていたものが『漢晋春秋』に引用され、それを更に裴松之が引用している(裴松之も「この上表文は『諸葛亮集』には見えない」と注記している)。しかしこの文章は228年に書かれたもののはずだが、翌229年に死去したはずの趙雲が、すでに死んでいるという記述がある。

また『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は兵法を応用して八陣の図を作成したが、ことごとく要点をつかんでいた。『李衛公問対』では、唐の名将李靖の「六花の陣」は、諸葛亮の「八陣の法」を参考にして作られているとしている。『三国志演義』では、諸葛亮は『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。また宋代には『諸葛亮行兵法』『諸葛亮将苑』など諸葛亮の名を冠した偽兵法書の書名が散見する。

諸葛亮は発明家でもあり、諸葛亮に関係した物として、晋時代に普及した筒袖鎧・連発式の弩を工夫した元戎(『魏氏春秋』によれば、この弩は十本の矢を同時に発射することができた)・一説には一輪車の起源とされる木牛・一説に四輪車と言われる流馬・駐留時栽培させた諸葛菜(蕪)・織物の技術を南蛮民に伝えた諸葛錦・字を知らない民の教育に使用した紙芝居・諸葛亮が考案したおもちゃ孔明鎖・現在雲南地方に諸葛亮発明の物として孔明灯なるものなどがあるとされる[要出典][13]。
なお「饅頭」という食品は、諸葛亮が南蛮征伐の際、人頭を祀るという風習の代りに、人頭の代替食品として、小麦の練り物の内部に肉団子を包み込み、人頭に見立てて考え出したものであるという話があるが、これは宋代の類書『事物紀原』に「小説に曰く」と前置きして引かれている話である。

諸葛亮 家系

家系図 [編集]

┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
諸葛珪                  諸葛玄
┣━━━━━━━┳━━━━━━━━━┓
諸葛瑾      諸葛亮      諸葛均
┣━━━┓    ┣━━━━━━━━┓
諸葛恪 諸葛喬 諸葛瞻        諸葛懐
         ┣━━━┳━━━┓
         諸葛尚 諸葛京 諸葛質

諸葛亮の子孫たち

中国には諸葛亮の子孫が集まったとされる諸葛八卦村が浙江省蘭渓市諸葛鎮にあり、住民の多くの姓が「諸葛」となっている。近年になって諸葛亮の家系図(彼らの先祖は諸葛亮の孫の諸葛京の家系とされる)が見つかるが、諸葛亮自身も1800年も前の人物であるので、実際に彼らが諸葛亮の子孫なのかどうかは家系図以外に実証する資料がない。諸葛亮が伝来させたという文化をよく守り、諸葛八卦村は中国から文化財として指定され観光地としても有名である[14]。なお、東京ガールズコレクションにも出演歴がある[15]、諸葛梓岐(マリー・ジュウガー)は諸葛亮63代目の子孫であるという。
張澍『諸葛忠武侯文集』によれば、諸葛質という息子がおり(故事巻一「雑記」)、また諸葛懐という息子・諸葛果という娘がいたとされる(故事巻一「朝真観記」)。諸葛果は成都近くの道観で修行して、ついに仙人となって昇天したという。

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諸葛亮 脚注

^ 後世において孫盛は、この言「事業が成就しなければそれはそれでしかたがない。どうして彼らに屈服できようか」をまことに壮烈であって、臆病者の心をも奮い立たせると評し、魏に降伏した劉禅や譙周を批判している。
^ 馬謖伝
^ 魏志「明帝紀」所引の『魏略』より。蜀志「費詩伝」では、諸葛亮は孟達に誠実な心がないと思っていたため、救助しなかったとある。
^ 「魏延伝」の記述より。『魏略』によると、この時魏延は長安を急襲する作戦を提案している。
^ 呉の張儼『黙記』、習鑿歯『漢晋春秋』より。
^ この戦いは、張郃の戦死を除くと勝敗優劣は『三国志』本伝に書かれておらず、蜀軍が撤退した理由も兵糧不足とある。習鑿歯の『漢晋春秋』では、蜀軍が魏軍の郭淮・費曜・司馬懿を破ったとしている。経緯は異なるが『蜀記』にも蜀軍が魏軍に大勝した話が書かれている。『晋書』では、魏軍が蜀軍を撃退、追撃して大勝したとしている。『漢晋春秋』に書かれた戦いは『三国志』蜀書王平伝にもあるが、王平伝では勝敗は書かれていない。『三国志』後主伝・諸葛亮伝・張郃伝では、蜀軍を追撃した魏の張郃が射殺されたことのみ言及され、勝敗には触れていない。この戦いの後、魏では蜀軍を撤退へ追い込んだ功により官位の引き上げが行われ、蜀漢で官位の引き下げは行われていない。
^ 習鑿歯『襄陽記』より
^ 「諸葛氏集目録」によれば、諸葛亮は道具の改良や技術の発展に大貢献した。
^ 『三国志』蜀書諸葛亮伝の注に引く孫盛の『異同記』によれば、蜀(益州)の長老が「陳寿が諸葛亮の子の諸葛瞻の部下だったとき、諸葛瞻から恥辱を受けた。陳寿はそのことを根に持って、諸葛瞻は政治の乱れを矯正できなかったと『三国志』に書いた」と語ったという。
^ また、袁子は「諸葛亮の行軍は安定・平静で行動しやすく、堅固・慎重で進退自在であり、法令は明快にして信賞必罰を旨としていたため、士卒は勇んで戦った。諸葛亮が行軍中に作った軍営・井戸・かまど・厠・砦などは立派で規則に適い、撤退する時はそれらをすっかり取り去っていった。また諸葛亮は役所・宿場・橋・道路の修築を好んだが、(袁子によれば)諸葛亮は国家の根幹を確立することで末端も治まるとの方針に基づいてこれらの工事を奨励した。諸葛亮の統治により、田畑は開墾され、武器の性能は良くなった」と評している。
^ 歴史読本 特集 三国志 七人の軍師 一九九三年四月号 P152-157
^ 『演義』の版本として現在最も通行している毛宗崗本では、この部分は削除されている。
^ 『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は連発式の弩(元戎)・木牛・流馬を開発した。
^ 諸葛八卦村 -浙江省観光局公式ページより。一部修正
^ 東京ガールズコレクション’09 A/W | 出演モデル | 諸葛梓岐

名言 人生 ルドルフ・ヌレエフ

人生はおのれとの闘い。他には何もない。
ルドルフ・ヌレエフ(バレエダンサー)

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ルドルフ・ヌレエフとは?

ルドルフ・ヌレエフ (Rudolf Khametovich Nureyev, 露: Рудо́льф Хаме́тович Нуре́ев, 1938年3月17日-1993年1月6日)は、ソ連生まれのバレエダンサー。本名ヌリ・ファスリ(Nuri Fasli)。

ルドルフ・ヌレエフ プロフィール

正確な誕生日は不明だが、3月17日前後に、父親の赴任地に向かう途中のシベリア鉄道の車内で生まれた。ヌレエフという名はアラビア語の姓「ヌリー(光の)」をロシア風に改姓したものである。これは彼の父親ハメットが共産主義に傾倒していった影響が大きいとされる。ちなみに、彼の親族は中央アジアの流れを汲むタタール系。

3歳でバクシール共和国ウファに移住し、幼少時から舞踊に興味を示し、父親に内緒でレッスンに通うようになる。当時は民族舞踊的なものが主体だったが、近所の教師にバレエの手ほどきを少々受けた。
17歳で名門ワガノワバレエ学校に編入し、ようやく本格的なバレエを学ぶ。入学時、面接官から「あなたは歴史に残るバレエダンサーになるか、失敗するかどちらかでしょう。恐らく後者の可能性の方が大きいでしょうけれど…」と言われたという逸話がある。

名教師プーシキンに師事した後、ソリストとしてキーロフ・バレエ(現マリインスキー・バレエ)に入団。ニジンスキーの再来とまで言われるようになる。反面、激しい性格と反抗的な態度から政府に警戒されるようになる。

1961年に、海外公演の途中に亡命。1963年ごろから英国ロイヤル・バレエのゲストとして20近く年上のマーゴ・フォンテインとペアを組み、後に伝説のパートナー・シップとまで言われるようになる。1982年にオーストリア国籍を取得。
80年代にはパリ・オペラ座芸術監督に就任、シルヴィ・ギエム、シャルル・ジュド、マニュエル・ルグリなどを見出した。また、レパートリーを一新して、ウィリアム・フォーサイスなど現代作品を積極的に採用、現在のオペラ座の隆盛の礎を築く。
1993年、AIDSによる合併症のため54歳で死去。

ルドルフ・ヌレエフ 逸話

競走馬で種牡馬の「ヌレイエフ」は彼の名前に由来する(父はノーザンダンサーで、父名からの連想でもある)。

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名言 伊丹十三

自分に出会えない人生は、他者とも出会えない。

悲観的に準備して楽観的に遂行せよ。


伊丹十三(映画監督・俳優)

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名言 笑顔

あなたのその笑顔をたやさないでください。
あなたのその優しさをたやさないでください。
あなたのその努力をたやさないでください。
人はみな苦しさに耐えて生きている。
あなたのその一生懸命生きている人生をたやさないでください。

須永博士(詩人)

名言 努力

「一体どれだけ努力すればよいか」という人があるが、 「君は人生を何だと思うか」と反問したい。努力して創造していく間こそ人生なのである。
御木徳近

私たちの人生は、私たちが費やした努力だけの価値がある。
モーリアック

千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。
宮本武蔵

努力した者が全て報われるとは限らん。 しかし、成功した者は皆すべからく努力しておる!!
出典:はじめの一歩キャラ:鴨川会長著者:森川 ジョージ

ボクシングにラッキーパンチはない!! 結果的に偶然当たったパンチにせよ、それは練習で何百何千と振った拳だ。 その拳は生きているのだ
出典:はじめの一歩キャラ:宮田の父著者:森川ジョージ

一生懸命努力すればするほど、運は味方する。
The harder you work, the luckier you get.
ゲーリー・プレーヤー

努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る
井上靖

毎日少しずつ。それがなかなかできねんだなあ
相田みつを

努力に勝る天才無し
ことわざ

どんな芸術家でも最初は素人だった。
ラルフ・ワルド・エマーソン

人から言われてやった練習は努力とは言わない。
出典:MAJORキャラ:茂野 吾郎著者:満田拓也

明日からがんばるんじゃない。 今日をがんばり始めた者にのみ明日がくるんだよ!
出典:賭博破壊録カイジキャラ:班長著者:福本 伸行

努力できるということも実力のうち
俵 万智

名言 挑む

卵を割らなければ、オムレツは作れない。
You can’t make omelet without breaking eggs.
出典:オール・ザ・キングスメン

人間、志を立てるのに遅すぎるということはない。
ボールドウィン

下手糞の上級者への道のりは己が下手さを知りて一歩目
出典:スラムダンクキャラ:安西監督著者:井上 雄彦

PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ
ロベルト・バッジョ

現状維持では 後退するばかりである。
ウォルト・ディズニー

人は世界一のゴミ収集人になれる。世界一のモデルにだってなれる。 たとえ何をやろうと、それが世界一なら何も問題はない。
モハメド・アリ

小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています
イチロー

どんな馬鹿げた考えでも、行動を起こさないと世界は変わらない。
マイケル ムーア

今日では世の中の動きがあまりに早すぎて、できないという言葉はそれを為す人によって中断される。
ラルフ・ワルド・エマーソン


自分が行動したことすべては取るに足らないことかもしれない。しかし、行動したというそのことが重要なのである。
Whatever you do will be insignificant, but it is very important that you do it.
ガンディー

今を戦えない者に、次とか来年とかを言う資格はない。
ロベルト・バッジョ

今まで出会えた全ての人々にもう一度出会えたらどんなに素敵なことだろう
峯田和伸


人生は勝ち負けじゃない 負けたって言わない人が勝ちなのよ
出典:3年B組金八先生キャラ:坂本 金八


ドアを叩け、さすれば開かれん
出典:聖書


好機は、それが去ってしまうまで気づかれないものだ。
出典:ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ著者:ドンキホーテ

昨日より今日、今日より明日、明日より明後日、日々変わり続ける事が大切です。
パスカル・バルボ

名言 希望

希望さえあればどんな所にでも たどりつけると決心している。
出典:ジョジョの奇妙な冒険キャラ:ジョルノ・ジョバーナ著者:荒木 飛呂彦

太陽が輝くかぎり、希望もまた輝く。
フリードリヒ・フォン・シラー

希望はいいものだよ。多分最高のものだ。いいものは決して滅びない。
出典:ショーシャンクの空に

希望と恐れは切り離せない。 希望のない恐れもなければ、恐れのない希望もない。
ラ・ロシュフーコー

不幸を治す薬は、ただもう希望よりほかにない。
ウィリアム・シェイクスピア

希望は強い勇気であり、あらたな意志である。
マルティン・ルター

希望は人を成功に導く信仰である。 希望がなければ何事も成就するものではない。
ヘレン・ケラー

希望とは世界の状態ではなく心の状態である。 希望、この深く力強い感覚は、 物事がうまくいっているときの喜びや成功が明らかな企業に投資する意欲などとはまったく異なるものだ。 むしろ、価値があるという理由で働くことのできる能力である。
出典:プラハ獄中記著者:ヴァーツラフ・ハヴェル

希望を失わないでやっていると自然と知恵も出てくる。 精神が集中して、そこに色々な福音が生まれてくる。
松下 幸之助

この世を動かす力は希望である。
やがて成長して果実が得られるという希望がなければ、農夫は畑に種をまかない。
M.ルター


思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。 それは地上の道のようなものである。 もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
出典:故郷著者:魯迅

完璧な文章などといったものは存在しない。 完璧な絶望が存在しないようにね。
出典:風の歌を聴け著者:村上春樹

生命のあるかぎり、希望はあるものだ。
出典:ドンキホーテ著者:ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ

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