名言 人生 ルドルフ・ヌレエフ
人生はおのれとの闘い。他には何もない。
ルドルフ・ヌレエフ(バレエダンサー)
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ルドルフ・ヌレエフとは?
ルドルフ・ヌレエフ (Rudolf Khametovich Nureyev, 露: Рудо́льф Хаме́тович Нуре́ев, 1938年3月17日-1993年1月6日)は、ソ連生まれのバレエダンサー。本名ヌリ・ファスリ(Nuri Fasli)。
ルドルフ・ヌレエフ プロフィール
正確な誕生日は不明だが、3月17日前後に、父親の赴任地に向かう途中のシベリア鉄道の車内で生まれた。ヌレエフという名はアラビア語の姓「ヌリー(光の)」をロシア風に改姓したものである。これは彼の父親ハメットが共産主義に傾倒していった影響が大きいとされる。ちなみに、彼の親族は中央アジアの流れを汲むタタール系。
3歳でバクシール共和国ウファに移住し、幼少時から舞踊に興味を示し、父親に内緒でレッスンに通うようになる。当時は民族舞踊的なものが主体だったが、近所の教師にバレエの手ほどきを少々受けた。
17歳で名門ワガノワバレエ学校に編入し、ようやく本格的なバレエを学ぶ。入学時、面接官から「あなたは歴史に残るバレエダンサーになるか、失敗するかどちらかでしょう。恐らく後者の可能性の方が大きいでしょうけれど…」と言われたという逸話がある。
名教師プーシキンに師事した後、ソリストとしてキーロフ・バレエ(現マリインスキー・バレエ)に入団。ニジンスキーの再来とまで言われるようになる。反面、激しい性格と反抗的な態度から政府に警戒されるようになる。
1961年に、海外公演の途中に亡命。1963年ごろから英国ロイヤル・バレエのゲストとして20近く年上のマーゴ・フォンテインとペアを組み、後に伝説のパートナー・シップとまで言われるようになる。1982年にオーストリア国籍を取得。
80年代にはパリ・オペラ座芸術監督に就任、シルヴィ・ギエム、シャルル・ジュド、マニュエル・ルグリなどを見出した。また、レパートリーを一新して、ウィリアム・フォーサイスなど現代作品を積極的に採用、現在のオペラ座の隆盛の礎を築く。
1993年、AIDSによる合併症のため54歳で死去。
ルドルフ・ヌレエフ 逸話
競走馬で種牡馬の「ヌレイエフ」は彼の名前に由来する(父はノーザンダンサーで、父名からの連想でもある)。
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