三浦知良の名言 | 笑いヨガには、福来たる!世界は愛と笑いに満ちている!!

三浦知良の名言

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三浦知良の名言

頑張れば必ず夢が叶うってわけじゃない。大事なのは、結果が出なくても人のせいにしないことじゃないかな。悪いときは、つい誰かのせいにするけど違うんです。自分自身に原因があるんです。僕はずっとそう思い続けてきました。

特別なものは何もないです。いつでもありのままを見せてきたから。ただ、準備だけは整えて、無心でいきたいですね。

辛いときは練習ですよ。グラウンドで走って苦しむ。肉体的にも精神的にも苦しむことで発散できますよ。それで自分自身を取り戻せるというか、休みの日で一人で走る公園でもそれは感じます。

人間いいことばかりじゃない。良くないときも頑張ろうと、自分自身に負けないように言い聞かせてきました。確かにワールドカップに出場できなかったのはバネになったけど、それだけじゃない。いまとなってはワールドカップもJ2の横浜で試合に出られないのも、僕の中では一緒。両方とも悔しいです。

先発フル出場が目標ではあるけれど、それは監督が決めることです。僕の中ではそれよりも、どういう気持ちでグラウンドには入れたかのほうが大事なんです。充実していたか、ボールに集中していたか。試合も練習も常にベストを尽くすことが大切だし、それがプロだと思っていますから。

そりゃあJ1とJ2を自由に選べるなら、J1を選びますよ。でも、自分を必要としてくれるならカテゴリーは関係ない。僕にとってのプライドとは、グラウンドで一生懸命プレーすることです。与えられたことを精一杯できるか。それがいまの僕には重要なんです。

(食事について)意識し始めたのは35歳過ぎてからです。それまではしっちゃかめっちゃか。いまでもそういうときはあります。試合まで時間が空くときは脂っこいものも食べるし、みんながいうほどストイックじゃないですよ。人間ね、なんで仕事するかといったら遊ぶためだし、楽しむためでしょう。いい仕事をするためには思いっきり遊ばないと。

(誰よりも早くグラウンドに入り練習することについて)他の選手の倍以上長くプロの生活をやっているから、倍以上体に気を付けなくてはならない。準備や体の手入れを慎重にやらないといけないから、どうしても早くなってしまうんです。

一番充実する地点に向かって、探りながら進んでいる感じです。決して止まってはいけないし、まだまだ上がある。自分の可能性に賭けているというところです。自分の人生が巻き戻せるとしても、やっぱりどこにも巻き戻したくない。


三浦 知良 のプロフィール

愛称 カズ、キング・カズ
カタカナ ミウラ カズヨシ
ラテン文字 MIURA Kazuyoshi
基本情報
国籍 日本
生年月日 1967年2月26日(45歳)
出身地 静岡県静岡市葵区
身長 177cm
体重 72kg
選手情報
在籍チーム 横浜FC
ポジション FW
背番号 11
利き足 右足

三浦 知良(みうら かずよし、1967年2月26日 – )は、静岡県静岡市葵区出身のプロサッカー選手。横浜FCに所属。2011年現在、プロフェッショナルリーグで実働する日本の最年長プロサッカー選手である。ニックネームはカズ、またはキング・カズであり、三浦を本稿では原則として「カズ」で表記する。妻は、三浦りさ子。

ブラジル時代のポジションは左ウイングであったが、日本帰国後はセンターフォワードとしてJリーグで活躍し、日本代表としてもFIFAワールドカップ初出場に貢献した。ワールドカップ予選では総得点を27点記録するも、ワールドカップ本大会へは未出場。Jリーグ年間最優秀選手賞1回、得点王1回、ベストイレブンを2回受賞、1993年にアジア年間最優秀選手賞を受賞。釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録を持つ(2011年時点。なお、国際サッカー連盟(FIFA)認定記録ではカズ単独記録となる)[2]。

三浦知良 経歴

三浦知良 幼年期

1967年2月26日、父・納谷宣雄、母・由子の次男(兄である長男は三浦泰年)として静岡県静岡市に生まれた[3]。叔父(母の弟)にサッカー指導者の三浦哲治がいる。知良(かずよし)という変わった読み方の名前は、父方の祖父に付けられたものだという[4]。1973年、静岡市立城内小学校に入学した[5]。小学時代には、伯父の納谷義郎が監督を務める城内FCに入っていた[6]。小学校4年生の時に両親が離婚し、三浦姓を名乗るようになった[7]。

三浦知良 ブラジル時代

1982年12月、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずして8ヶ月で中退、ブラジルに単身渡航、CAジュベントスへ留学[8]。その後ブラジル中を渡り歩くことになるカズの出発点であった。当時のカズは身長が低く、テクニックは持っていたものの他に一流
と呼べるようなものはなく、指導者達はカズの「ブラジルでプロになる」という夢を無理だと思っていた[9]。1984年の秋頃、ジュベントスからキンゼ・デ・ジャウーへ移籍する[10]。

1985年、夢を諦めて日本に帰りたいと思った時期、ふと寄ったリオの公園で現地の貧しい少年達がサッカーをしているのを見た。その中には裸足の子や片足がない子もおりボールは古く汚いものだったが、皆楽しそうにボールを追っていた。カズは「自分には両足も、スパイクも、いいボールもある。何を俺は贅沢なことを言っているんだ」と思い、帰国を思いとどまった[11]。

8月、SBSユースに、キンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋し、当時静岡高校選抜のDF中山雅史、FW武田修宏らと試合を行った[12]。1986年1月[注 1]、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ(U-21)に、日本人として初出場、この大会やキンゼ・デ・ジャウーの育成組織で活躍したことで後のプロ契約に繋がった[13]。

1986年2月、サンパウロ州のサントスFCとプロ契約[5]。5月にはSEパルメイラスと特別契約を結び日本でのキリンカップで凱旋帰国した[5]。しかしサントスFCで出場できたのは1部リーグ2試合だけに留まり、1986年10月にはパラナ州のSEマツバラへレンタル移籍、1987年2月にはマツバラと正式契約を結び、レギュラーとして南部三州リーグ優勝に貢献[14]。同年10月、アラゴアス州のクルベ・ジ・レガタス・ブラジル(CRB)に移籍し、ここでもレギュラーとして活躍、日本人で初めてブラジル全国選手権に出場した[15][16]。

1988年、サンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍[5]。同年3月19日、コリンチャンス戦で日本人としてリーグ戦初得点を記録し、格上の人気チーム相手に3-2で勝利するというジャイアント・キリングを起こした[17][16]。このときの試合はブラジル全土にテレビ中継されていたために、カズという日本人の名前が広く知れ渡った[18]。同年にブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウィングの第3位に選ばれた[19][20]。クラブでの活躍により、カズはジャウー市から名誉市民賞を贈られている[21]。1989年2月、パラナ州のコリチーバFCに移籍し、パラナ州選手権優勝に貢献した[5]。

1990年2月、サントスFCへ4年振りに再移籍した[5]。マツバラへレンタルされた時からもう一度サントスでプレーして自分の力を証明したいと思っていたカズは、誘いを掛けてきた他のチームの話もあったがそれを断っての移籍だった[22]。カズはレギュラーポジションを確保、同年4月29日のパルメイラス戦で1得点1アシストと活躍し、この試合に2-1で勝利した際には、翌日のブラジルの新聞はスポーツ紙から一般紙に至るまでカズの活躍を伝えた[23]。このカズのゴールシーンは、ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾った[24]。

三浦知良 日本への凱旋〜欧州移籍

ブラジルで活躍すれば、いずれは日本へ戻ると公言していたカズは、1990年7月、Jリーグ発足が現実味を増す中、日本のW杯出場に貢献するためにブラジルに残ることよりも日本でプレーすることを決断し、日本サッカーリーグの読売サッカークラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディの前身)に移籍した。

当初、期待とは裏腹に、クラブでは日本のサッカーになじめずなかなか活躍できなかった[25]が、徐々に日本のサッカーに慣れ、Jリーグ開幕後はラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏、ビスマルク、柱谷哲二、ペレイラ、菊池新吉らその他多くのチームメイトに恵まれV川崎の黄金期を築いた。1992年の日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)受賞に続き1993年、日本人最高の20得点を記録しV川崎を初代チャンピオンに導き、Jリーグ初代MVPを受賞した。日本リーグとJリーグを跨いで年間最優秀選手に輝いた。1993年のアジア年間最優秀選手賞を受賞した。

1994年にはイタリア・セリエAのジェノアCFCに1年契約で期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなった。この移籍には商業的な価値を期待していたと見る向きが強く、胸スポンサーとしてケンウッドが入っていたこともあって、入団会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた[26]。

ACミランとのセリエAデビュー戦において、フランコ・バレージとプレー中に激突し、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷してしまい、一ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。復帰後、UCサンプドリアとのジェノヴァダービーで先制点となるゴールを奪う(試合は2-3の敗戦)。しかし結局ゴールはこれのみで、21試合出場(先発10試合)に留まった[27]。その後、トリノFC、スポルティング・リスボンといったチームからオファーが来ていたが、シーズン終了後にはV川崎へ復帰することとなった[28]。その後、1995年は2ndステージからの復帰で得点ランキングの上位に入り、また1996年には得点王になるなど活躍したが、1997年頃から得点数は減少。チームも年々勝てなくなっていった。

1998年末、V川崎は親会社の撤退で大幅な経営縮小のため、高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、カズに対しても年俸ゼロ円提示がなされる。カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍した。これはクロアチア・ザグレブに大きな影響力を持った当時のクロアチア大統領フラニョ・トゥジマンの意向が働いたものとされており、戦力としての評価よりも背後のジャパン・マネーを狙った経済的な期待が大きかった[29]。カズはアシストのみでゴールは挙げられなかったが、ザグレブはクロアチア・リーグで優勝した。しかしそのシーズン終了後、新たに就任した日本でも監督経験のあるアルディレス監督に戦力外とされ、本人が熱望していたUEFAチャンピオンズリーグへの日本人初出場はかなわず、1999年6月、契約よりも1年早く日本に帰国した。

三浦知良 Jリーグへの復帰〜現在

1999年7月、当時元日本代表監督の加茂周が監督を務めていた、京都パープルサンガに移籍。中村忠と再び同僚となった2000年には33歳ながら17得点を記録し得点ランキング3位に入るなど活躍し、Jリーグ猛打賞を受賞する。しかしこのシーズン、京都は降格し、自身2回目であるゼロ円提示を受ける。

2001年からはヴィッセル神戸に所属し、4年間キャプテンとしてチームの最前線に立った。得点に関しては、1年目は11得点を記録し、健在ぶりをアピールしたが、その後は4年間で13得点といった結果しか残せなかった。ただし、毎年秋口にはゴールを重ね、残留争いを続けるチームにあって重要な役割を果たし播戸竜二に惜しみなくアドバイスを送った。また地域貢献の一環として、小学校での訪問授業をこの時期開始した。その後横浜FCに移籍してからも、同様の活動を続けている。2005年は、開幕三試合連続ゴールを決めるなどカズとチーム自体も好調なスタートを切ったが、その後チームは低迷し、監督交代が続いた。最終的に新監督によるチーム構想から外れ、シーズン途中の2005年7月、横浜FCに移籍した。

横浜FCに移籍後間もない11月、2005年に設立したばかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍した。シドニーFCは元Jリーガーで、カズの全盛期を対戦相手としてよく知るピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月に日本で開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得ていた。カズはリーグ戦4試合に出場し当時首位を走っていたアデレードとの直接対決において2得点と結果を残した。チームでのポジションを確保し、FIFAクラブ世界選手権では2試合に先発出場、得点には絡まなかったもののシドニーFCは5位決定戦に勝ち6チーム中5位となった。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番を着けてピッチに立った。なお同大会の前身であるインターコンチネンタルカップを含め、日本人の出場はカズが初めてである。

2006年2月からは横浜FCの選手兼任の監督補佐に就任するが、登録上は選手扱いである(Jリーグの規定では選手が監督・コーチを兼任することが出来ない)。このシーズン、39試合に出場し6得点、横浜FCのJ1初昇格に貢献した。2007年はシーズン全34試合中24試合に出場。9月15日のサンフレッチェ広島戦で日本人選手史上最年長ゴールを記録するなどシーズンで3得点を挙げた。12月1日の最終戦浦和レッズとの試合では、引き分けか、負ければ浦和の優勝が決まるという大一番で、阿部勇樹を左サイドで抜き去り、その後のセンタリングから根占真伍の決勝点をアシストして浦和の優勝を阻んだ。なお、横浜FCはこの試合の前にJ1最下位でJ2降格が決まっていた[30]。

2008年はシーズン全42試合中30試合に出場し、主に攻撃的MFとして活躍。チーム事情から自身初となるボランチを務めた試合もあった。10月25日にホームで行われた第41節愛媛FCとの試合にて、待望のシーズン初得点を挙げ、Jリーグ開幕後16年連続得点を記録した。尚、2008年シーズンはこの1得点しか結果を残せなかった。2009年も横浜FCと契約、第2節ロアッソ熊本戦にてPKで得点を挙げたことにより、Jリーグ開幕後17年連続得点と自身の持つJリーグ最年長得点記録を更新したが、この年の得点は、この1得点のみに終わった。

2010年にはかつて所属していたキンゼ・デ・ジャウーから移籍のオファーがあったが[21]、横浜FCに残留した。さらに、神戸時代の2005年シーズン以来となるチーム主将を務めることになった。シーズンでは右脚の負傷[31]に苦しんで出場機会を大きく減らし、プロ入り以来最少となる10試合、わずか188分(換算して2試合分)の出場にとどまった。しかし出場した際には常に好調なプレーを見せ、8月7日のJ2第21節ファジアーノ岡山戦で得点を挙げ、Jリーグ開幕からの18年連続得点を記録した[32]。9月26日のJ2第28節カターレ富山戦では、久々の直接フリーキックを決めた[33]。更に12月4日のJ2最終節大分トリニータ戦でこのシーズンで初めて先発し、フル出場して得点を挙げ、自らの最年長得点記録を43歳9カ月8日に更新した[34]。これらの印象深い活躍から、少ない出場時間ながら横浜FCの「サポーターが選ぶ年間MVP」に選出された[35]。

2011年3月29日に行われた東日本大震災の日本代表のチャリティマッチ「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」においてJリーグ選抜に選出され、後半17分から途中出場。後半37分に田中マルクス闘莉王の落としたボールに反応して得点を挙げ、試合前の宣言通りカズダンスを披露した。 このゴールは世界に中継されたが、英語実況では「national treasure Miura」と評された。このシーズンでは得点を挙げることができず、「J連続得点記録」は18年でストップ。
2011年12月、カズは横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録。2012年1月15日の北海道対府中戦の1試合限定で公式戦に出場した[36]。2012年2月、Fリーグ2011poweredyウイダーinゼリーの表彰式で特別表彰を受賞。

三浦知良 日本代表

三浦知良 代表デビュー〜エースとして

カズのA代表デビューは1990年9月のバングラデシュ戦。その後もハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップや、アジアカップ1992での優勝などに貢献する。アジアカップのグループリーグ最終戦イラン戦では、後半終了間際に決勝ゴールを決め「魂込めました、足に」とコメントした。

1993年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会予選では、1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げエースとして活躍した。中でも大韓民国戦での決勝ゴールは、日本サッカーが40年もの間超えられなかった壁であった韓国を、ワールドカップ予選で初めて破ったという意味でも値千金であった。しかし2次予選最終戦のイラク戦でロスタイムに同点にされ(いわゆる「ドーハの悲劇」)、ほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃した。このことについて、カズは「(センタリングを上げられた)瞬間、やばいと思った。スローモーションのように球の軌道が見えた」と著書『おはぎ』で語っている[37]。

三浦知良 フランスW杯に向けて

その後、パウロ・ロベルト・ファルカン、加茂周と監督が代わっても、カズはコンスタントにゴールを決め続けていた。1997年6月22日、仏W杯アジア1次予選グループ4第4戦マカオ戦で6得点をあげ、釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録を樹立した(2011年時点。FIFA認定記録ではカズ単独)[2]。だが、1997年9月7日の仏W杯アジア最終予選B組初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたものの、その後の試合では1ゴールも挙げられず、カズ代表不要論が高まり、国立競技場でのUAE戦の後には暴徒化した一部サポーターに罵声を浴びせられ、またそれらに応戦する姿がワイドショーで放映された。

その後、ワールドカップ本大会日本初出場を決めたアジア第3代表を決めるイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では交代を命じられ、この時カズが「オレ?」と自分を指差したことは現在でも語り草となっている。
この時、サブメンバーでウォーミングアップを行っていた呂比須ワグナーがベンチに呼ばれてユニフォームに着替え、ピッチ内へは中山の交代だと伝えられていた。だが岡田武史監督はその時ベンチに座っていた城彰二にも声をかけ、同時に交代することを決断した。城はベンチに座っていたため、無論ウォーミングアップは行っておらず、正に急な交代となった。

交代板には11番が先に出たので、「ゴン(中山雅史)なのか? 俺なのか? どっちだ?」と岡田監督に確認を取るためのジェスチャーだったが(番組インタビューなどで本人及び城、岡田監督の両者が語っている)、一般的には「まさか俺を交代させるのか?」と言うアピールだとマスコミに解釈をされてしまい、誤解を受けることとなった。また、イランのアジジが11番を着けており同時に交代したため、どちらの11番を指しているのか判りづらかったと後日出演したTBS『見ればなっとく!』内で北澤豪は述べている。また予定外の交代は、試合前のミーティングでの「FKは中田もしくは名波が蹴る事」との岡田監督の指示を無視してカズ自らが蹴った事で「少し感情的になってしまった」と後に岡田監督は述懐している[38]。

1998年、ワールドカップ本大会のためスイスでの直前合宿に臨んだ。しかし、北澤豪、市川大祐と共に、本大会出場メンバーの選考から漏れ苦渋の帰国となった(ニヨンの屈辱)。この舞台を切望していたカズが落選した発表はマスコミで大きく報じられた。カズは帰国会見で「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とコメントした。その後、日本代表はアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと同組になったW杯本戦を1次リーグ3戦全敗、僅か1得点という結果で終えたこともあって、岡田の采配や判断は議論を呼んだ。

三浦知良 フランスW杯後
フランスW杯終了後、フィリップ・トルシエに監督が交代してからもしばらく代表に招集されることはなかったが、1999年末から2000年までは再び代表に招集された。しかし2000年6月のハッサン2世国王杯でのジャマイカ戦が最後の出場になった。この試合では、中田英寿からのパスで、現在のところ最後となる国際Aマッチでのゴールを決めている。それ以降は韓国戦に招集はされたが、サポーターからカズコールが起きたにもかかわらず、結局出場機会はなかった。

トルシエはカズを高く評価しており、カズを初招集した際「君がいろんな経験を積んでいるのは一目でわかる。若手を引っ張ってくれ」「98年のワールドカップはどうしてダメだったんだ。ウエイトオーバーだったのか? こんなに動けるのになにが問題だったんだ」と会話を交わした。トルシエは2002 FIFAワールドカップにおいて代表スタッフとしてカズの帯同を望んだが、カズは選手としての参加を望んでいたため実現しなかった[39]。

三浦知良 評価・プレースタイル

ブラジル時代は左ウイングとして、ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』にて年間ポジション別ランキングで左ウィングの第3位に選ばれる[19][20]等、活躍した。Jリーグや代表ではセンターフォワードとしてゴールを量産した。
カズといえばドリブルで、強烈なサイドステップを踏むフェイント[40]、シザース(またぎフェイント)等で相手を打ち破った。『週刊サッカーダイジェスト』のドリブラー特集でも、名前を挙げられている[41]。ブラジル仕込みの卓越したテクニック、ディフェンスを置き去りにする一瞬のスピードを持っていた[42]。パス、トラップ、シュート等基本的なプレーも、ずば抜けているとは言えないが、平均して高いレベルで安定している。基本的なプレーをおろそかにしない。守備をしっかりこなす等、献身的なプレーも見せる[43]。

元々身体能力に恵まれた選手ではなく、身体も極めて堅い[42]。年齢の積み重ねとともにスピードは衰えてきているが、それでもボールを扱うテクニックはクラブ内で高いレベルを維持し、巧みな読みで勝負している[42]。また、40歳を超えても高い持久力を維持している[44]。

サッカージャーナリストの大住良之は、カズの特質として「並外れた精神力」を挙げている。カズよりもシュート力・テクニック・スピードのある選手はいるが、精神的な強さでカズをしのぐ選手はいないと評している[40]。岡野雅行は「ココ一番な場面では必ずゴールを決めるし、大舞台にもビクともしない」とコメントしている[45]。プロ野球選手のイチローは「価値観が同じというか、種目は違うけど互いの考え方を理解しあえる人。大きなプレッシャーを背負いながら、あれだけの力を発揮できる集中力・精神力はさすが」とコメントしている[46]。また、横浜FCでのチームメイト・早川知伸は「カズさんがすごいのはメンタル。精神力があるからこそ、技術も体力も衰えない」、小野智吉は「本当にサッカーが好き。43歳でも、中学生のような気持ちを忘れない」と話した[47]。

元韓国代表DFのチェ・ヨンイル(崔英一)は、日本代表との対戦時、カズへ特に厳しく当たりにいったと語っている。カズのプレーに対し「テクニックも、運動量も、決定力も、勝負に対する執念もある。でも、フィジカルコンタクトを避けているように見えた。そこで、僕の出番だった」と述べている。チェは韓国で「三浦の影」と言われるほど徹底的にカズをマークした。対するカズも「韓国のチェ・ヨンイルほど、ストライカーとしての僕に『集中』したディフェンダーはいなかった」「彼とは、チームとは別の世界で二人だけで勝負しているような気さえした」とチェを評価している[48]。

若い頃は、カズがクラブや代表でもフリーキックやコーナーキックを蹴ることもあった。(上記のように2010年にもJ2カターレ富山戦で直接フリーキックによるゴールを決めている) さらにスイッチキッカーとして左右両足でフリーキックやコーナキックを蹴る稀なプレイヤーであった。都並敏史は「僕も左右で蹴れるけど、カズはその精度が高い」と称えており、カズ自身は「小さい頃から利き足に関係なく、両足で練習していた。それは意識してというよりも、自然な感じで覚えたものだった」と語っている[49]。

三浦知良 人物

三浦知良 パブリック・イメージ

通称は「カズ」「キング・カズ」など。ブラジルでは「KAZÚ」と「Ú」にアクセント記号が付き、「カズー」と尻上がりに呼ばれた。彼を指す場合、一部のサッカー専門誌(特に『週刊サッカーマガジン』などベースボール・マガジン社の出版物)や新聞(日刊スポーツ)ではフルネームではなく「カズ」と表記し、「三浦カズ」と呼ばれることもあるが、同姓の選手が多いこともあり、ファミリーネームの「三浦」のみで呼ぶことは少ない。愛称の「カズ」で呼ぶ事が定着している。40歳を超えても現役でプレーし続け、そのストイックな選手生活や波乱に富んだキャリアから、日本プロサッカー界におけるパイオニア的存在として名高い。

1993年8月1日にタレントの三浦りさ子(当時の芸名は設楽りさ子)と結婚。兄は同じく元Jリーグ選手三浦泰年(通称ヤス)。伯父の納谷義郎は城内FC(地元の少年団)の監督、実父の納谷宣雄は、静岡FCのGMとなっている。

三浦知良 サッカー選手として

日本国籍の選手で2010年現在、唯一ブラジルで成功した選手である。また、世界各国のサッカークラブを渡り歩いた日本プロサッカー選手の先駆け的存在である。現在のサッカー人気や日本代表ブーム、自身のセリエA移籍などでファンの欧州サッカーを見るきっかけを作るなど、サッカーを日本においてメジャースポーツに押し上げた火付け役であり功労者でもある。特に若手にとって手本とされるのは、その強烈かつストイックなプロ意識にある[50]。

朝一番にグラウンドに訪れ、ランニングでは常に先頭に立つなど精力的に動く。年齢を重ね、若手選手とは親子ほどの年齢差になっても練習は別メニューでなく一緒にこなす。一日に何度も体重を量り、フィジカルトレーナー、マッサージトレーナー、栄養士は個人で雇い入れているほど、徹底した体調管理を行っている[51]。シドニーFC在籍時にはピエール・リトバルスキー監督から「カズはサッカー選手のお手本。シドニーFCの選手達はカズからプロ精神を学んだ」と賛辞を贈られている[52]。
前述のようなストイックなイメージで知られるが、孤高の存在というわけではなく、欧州でプレーする長友佑都・長谷部誠・内田篤人・香川真司らと食事会(通称「カズ会」)を行うなど面倒をみている。その際、カズの隣の席の争奪戦が起きるほどに慕われている[53]。

2004年12月、ブラジル・サンパウロ州のクラブチームで同州二部リーグに所属するウニオン・サンジョアンのクラブ買収に乗り出していた。現役選手の視点から、クラブ運営や自分を育ててもらった人材の宝庫と言われるブラジルで、後進の育成にも携わっていく構想を持っているようで、2010年1月にはサッカークラブのオーナーを目指していると東スポに報じられた[54]。

三浦知良 スター選手として

横浜FCはJ2ながらカズが加入したこともあって、横浜FCの関わった試合の平均観客動員が加入前6,079人から加入後10,293人へと上昇する[55]など、アウェイでも注目を集めてJ2の観客動員に貢献した。FIFAクラブ世界選手権2005に出場するシドニーFCへレンタル移籍した際には、カズの認知度は日本でプレーする選手の中でも群を抜いており、日本人初の出場選手として大会の認知度を格段に上げたとスポニチのコラム内で言及されている[55]。2010年6月、南アフリカW杯中断期間中に沖縄県宮古島でキャンプを行った際には、カズ人気で多くの市民が練習見学に訪れた[56]。

北澤豪は読売時代からカズとよく一緒に行動しており、北澤がまだ無名だった頃には、カズはファンにサインする際に色紙の半分を空白にし「こいつ、これから絶対伸びてくる奴だから、今のうちにサイン貰っといた方がいいよ」とよく言っていた。1998 FIFAワールドカップの落選に対し、カズは北澤に「俺たちがやってきたことは間違いない。大事なのはこの後だ」とだけ話し、ネガティブなことは一切言わなかった[57]。
韓国代表の朴智星はカズと親交があり、韓国でもカズを知らないものはいないと評している。京都パープルサンガでプロデビューし、カズと共にプレーする以前からカズを「アジアサッカー界を代表するスーパースター」と認識しており、自分の原点は京都にあると共に、その中で最も規範となり刺激を与えてくれた選手は間違いなくカズであると評価している[58]。

2012年2月、「女性に花を贈る姿が似合う男性」として、初代Mr.フラワーバレンタインに選出された。ヨーロッパなどではバレンタインデーに男性が女性に花を贈ることが通例となっていることから。[59]


三浦知良 背番号へのこだわり

「背番号11」へのこだわりは強い。11番を着けるようになったのはブラジルに渡ってからで、小中学生の頃は14番だった。カズのいた当時のブラジルは背番号固定制ではなく先発選手が1番から11番をつけるシステムになっており、左ウィングの背番号が11番だった。日本に帰国した時にも読売クラブに11番を希望していたがすでに埋まっており、空いていた24番を選択した。翌シーズンには希望通り11番を着けた。94年には日本代表監督に就任したファルカンから代表のキャプテンとして10番を付けるように勧められたが、これを断っているほどであった。京都へシーズン途中に加入した際、11番は藤吉信次が着けておりカズは36番を着けたが、藤吉に冗談で「500万円で売ってくれ」と頼んだことがある。ここでも翌シーズンには11番を着けた。11番はラッキーナンバーとして大事にしており、練習の際のビブスも11番を選んで着用し、車のナンバーを11にしたり、駐車場で11番が空いていたらどんなに狭くてもそこに駐める[60]。

三浦知良 エピソード

三浦知良 選手編
中学3年生の時、進路指導の紙の志望高校を書く欄に「第一希望 ブラジル」と書いて[61]、先生にものすごく怒られた。この件について「当時既にブラジルに行く以外考えていなかったので、高校名を書くわけにはいかないと思ったから」と『ジャンクSPORTS』出演時に語っている[62]。

契約金の良さにブラジルから帰国したと語っていたが、実はラッシャー板前の家に居候という経済的に困窮していた事を浅草キッドに『ジャンクSPORTS』で暴露された[63]。

三浦知良 プライベート編

ブラジルの永住権を今でも更新しており、そのために2年に1度はブラジルへ渡航している[64]。
ブラジルの公用語であるポルトガル語が堪能であり、通訳無しで喋っている映像が残されている他、チームではブラジル人選手の面倒もよく見ており2010年の第28節ではカイオがFKを譲るシーンもあった。このときカイオは「カズさんの今までやってきたことを考えると絶対に譲らないといけないと思うのと、いつもブラジル人たちを手伝ってくれているのもあった」と語っている[65]。

カズ本人によれば映画『ゴッドファーザー』好きで、自身の時に奇抜なファッションはこの作品に影響を受けたことが原因だと証言している。日本サッカー界屈指の「伊達男」だと自認する。特にスーツを愛好する服好きであり、都内に洋服保存用マンションを購入したほどである。

朝起き抜けに出掛ける時もスーツに着替える(極端な例として、コーヒーを一杯飲みに行く為だけに着替え、帰宅後にまた着替えて寝たことがある)ほどだったが、最近は所属する横浜FCの空気がそうさせたのか、ジャージで出歩くことも多くなった。しかし、サングラスとマフラーは忘れないらしい。

武田修宏と会う約束をしていた時に、武田が待つ場所へ全身白(帽子、スーツ)にサングラスという危険な出で立ち(武田曰く、「誰がどう見てもカズさんとわかる格好」)で現れ、武田がうろたえた。
SMAP×SMAP出演時に、1度服を処分した事を告白。保存用のマンションを購入したにも関わらず処分せざるをえない程所有していたようだ。

ゴッドファーザー好きは、よく行く店でカズが来店するとBGMに必ず「ゴッドファーザーのテーマ」をかけさせるほど徹底している。前園真聖に「(西麻布の行きつけの飲食店で)この曲がかかってたら必ず俺がいるから」と言っていたことを前園自身が語っている[66]ほか、ミラノのフォーシーズンズホテルでもカズが行くとゴッドファーザーのテーマが演奏されることを北澤豪が暴露した。(いずれも『ジャンクSPORTS』より)
好物は自著の名前にもなっているおはぎで、「全国おはぎ協会会長」を自負している[67]。

2007年、当時9歳の長男に「日本代表の伝説的な背番号11番は誰か知ってるか」と聞いたら、冗談混じりに「巻!」と言われたと『ジャンクSPORTS』出演時に語っている[62]。
ミュージシャンの浜田省吾とブラジル時代から20年来のつきあいがあり、現在でも一緒に食事に行くことがある。カズはもともと浜田のファンで、ブラジル時代にも浜田の曲をよく聴いていたそうだ。2006年8月に発売された浜田のベストアルバムのCMにも友情出演した[68]。浜田省吾との縁で、浜田省吾が所属するロード&スカイグループとマネジメント契約を結んでいる。

元プロ野球選手の清原和博とも親交があり、2008年8月に長居スタジアムの試合前に大阪ドームに激励に訪れた。
近年(2008年~)は矢沢永吉をよく聞いている[69]。

尊敬する人物はモハメド・アリ。彼の自伝を何度も読み返して心の糧としており、フランスW杯の直前合宿にはモハメド・アリの自伝を持っていった。
俗に言う「持っている」という表現を非常に嫌う。「すぽると」のインタビューで国分太一相手に語っており国分の「なぜこの年齢まで選手として続けられるのか?」と言う問いに対して「自分の成果は、積み重ねの結果であり決して”持っている”とは思っていない」と答えている。この供述は著書「やめないよ」でも触れている。

三浦知良 名前に関するエピソード

ロス疑惑の容疑者であった三浦和義とは同音異字。ロス疑惑・三浦和義に関する報道合戦が過熱していた1980年代中頃は、カズはブラジルでプレーしていた。その為、帰国した後も日本代表のサッカー選手として知名度を得るまでは勘違いされる事が多々あったという。

1982年[注 2]にブラジルに渡航した際、経由地としてロサンゼルスに10日間滞在した為、母親に「同じ名前の人がロスで事件に巻き込まれたから、気をつけなさい」と言われた、と本人が語っている。
高校の1学年後輩である石野卓球も、カズの名前を聞いた時に三浦和義と勘違いしたことがある。なお、前述の通りカズは高校を1年足らずで中退したため、カズと石野が同じ高校に在籍した期間はない。
雑誌や新聞で「知良」を「和義」と書かれる誤字もあった。「和良」「知義」など一字違いの誤字も少なくない。
両者は直接対面した事があり、カズは三浦和義から花束を渡された。

ロス疑惑の報道合戦から約四半世紀を経た2007年頃には、サッカー界では1980年代生まれの選手がJリーガー・日本代表の中核を占めていたが、この世代ではもはや年齢的にロス疑惑と三浦和義を知らない選手がごく当たり前にいる状況となっていた。この事もあり、2008年2月、サイパンで三浦和義が現地の警察により逮捕された際には、平山相太(1985年生)などが報道を見てカズが逮捕されたと勘違いするという事態が起きた[70]。
愛称の「キング・カズ (KING KAZU) 」は、1993年のワールドカップ・アメリカ大会アジア最終予選朝鮮民主主義人民共和国戦にて2ゴール1アシストを決めた翌日、開催地カタールの英字紙「ガルフ・タイムズ」の見出しに使用されたのが初出である[71]。以後、日本国内のメディアでも使われるようになり、移動バスでカズが座る左最後尾の座席が「キングシート」と呼ばれたりした。カズ自身、「キング」は偉大なペレのニックネームと思っていたが、横浜FCに移籍した頃から自然に受け止められるようになり、その名に恥じない言動を心がけている[72]。

三浦知良 両カテゴリーでの優勝

ヴェルディ川崎においてJ1、横浜FCにおいてJ2での優勝、天皇杯、ナビスコカップも制覇した唯一の選手。 J2以外ではMVPも獲得している。

三浦知良 カズダンス

本人が得点を決めた時にするゴールパフォーマンス。両脚で細かいステップを踏みながら両手をぐるぐる回し、最後に左手で股間を抑え右手で前方または天を指さすのがスタンダード。フィニッシュはガッツポーズや投げキッスなど、いくつかヴァリエーションがある。

原型となったのは、ブラジルのFWカレカが得点後にみせたコーナーフラッグ付近でサンバを踊るパフォーマンス[73]。カズが考えた踊りを元に、田原俊彦がアレンジを加えて完成した[74]。「ゴール後のパフォーマンス」を日本に定着させたのはこのダンスであり、Jリーグ開幕直後、小中学生はこぞってゴール後に踊っていた[74]。

日本のテレビで初めてカズダンスが放映されたのは、1989年頃にテレビ朝日系列で放送されていた『ビートたけしのスポーツ大将』内のサッカー対戦で、助っ人として出演しゴールを決めた時である。もっとも後に披露されたカズダンスに比べてシンプルなものであった。本人は初披露は1992年のゼロックス・チャンピオンズ・カップ(読売対トヨタ)だったと述べている[73]。

近年では2000年のJリーグ通算100得点達成(当時京都在籍)後、神戸在籍時の2002年アウェーのガンバ大阪戦、北澤豪引退試合での得点後などで披露した(ラモス瑠偉引退試合でも、得点はならなかったが試合後のセレモニーで披露)。横浜FCに移籍してからは、2005年シーズン第32節徳島戦で逆転ゴールを挙げた後に吉武剛と共に披露(試合はその後再逆転され2-3で敗戦)。そして2007年シーズン第13節大分戦で日本人選手最年長ゴール記録を更新したときも「リクエストに応えて」(本人談)披露した(試合は2-1で勝利)。2010年シーズン第28節富山戦でJリーグ最年長ゴール記録を更新したときも披露した[65]。

また、Jリーグ開幕時の前園真聖など、様々なJリーガーもこのダンスを披露している。城彰二が一時期カズダンスをしていたが、そのことを知人から聞いたカズは城を呼び出して説教をした[注 3][62]。それ以来城は酒の場以外、カズダンスをしていない。また須田興輔も2005年(当時水戸ホーリーホック在籍)に「次に点を取ったらカズダンスします」と語っている(が、実現はしていない)。またコンサドーレ札幌に所属していた相川進也は2005年第34節徳島戦にて披露している。京都と神戸でチームメイトだった朴康造は韓国代表の試合や2010年最終節浦和戦、2011年第10節川崎戦で「本家公認[75]」というカズダンスを披露している。李忠成(当時柏所属)も2008年第14節浦和戦で先制ゴールを決めたときに披露した。
2011年3月29日行われた東日本大震災復興支援チャリティーマッチがんばろうニッポン! では、試合前にカズダンスについて「やってもいいんじゃないですかね。いろんな意見があると思うけど、やるのも一つの手だと思う」とゴールを決めた場合にはカズダンスを行うことを示唆[76]。 後半37分にゴールを決めた際にはゴール裏でカズダンスを披露した。

三浦 知良¥ 263
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三浦知良 著書

『おはぎ』(2005年、講談社)ISBN 4063077543
『ラストダンスは終わらない: essay 2001-2005』(『おはぎ』を改題・文庫化、2012年、新潮文庫、ISBN 9784101383910)
『三浦知良 伝説の言葉- 蹴音 -』(2006年、ぴあ)ISBN 4835616189
『カズ語録』(『三浦知良 伝説の言葉- 蹴音 -』を改題・文庫化、2012年、PHP文庫、ISBN 9784569677996)
『やめないよ』(2011年、新潮社)ISBN 4106104059
『日めくり KAZU 魂のメッセージ 底力』(2011年、PHP研究所)ISBN 9784569799155
『Dear Kazu 僕を育てた55通の手紙』(2011年、文藝春秋)ISBN 9784163747309

三浦知良 関連書籍

『KAZU-十五の旅立ち 三浦知良物語』(綾野まさる 著)
『足に魂こめました』(一志治夫著)
『たったひとりのワールドカップ 三浦知良、1700日の闘い』(一志治夫著)
『ズバリ、一流のストライカーに育てる本 – カズ、ヤスの母親に学ぶ』(三浦由子(三浦兄弟の母)著)
『KAZU―ハーブ・リッツ作品集』(ハーブ・リッツ)
『三浦知良―素顔の青春』(三浦知良担当記者グループ 著)
『KAZU(カズ)とJリーグ』(岡 邦行 著)
『KAZU(カズ)―ザ・スーパーストライカー』(加藤 高尚 著)
『カズに賭ける夢―セリエAからワールドカップへ』(田中 孝一 著)
『三浦知良夢のゴールへ』(三浦知良研究会 著)
『三浦知良のサッカー留学物語―日本人で初のブラジル・プロになった男』(大貫 哲義 著)
『Jリーグ15年の物語 カズ&ゴンたちの時代』(矢内 由美子 著)
一志 治夫
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出典 [編集]
^ a b 【日本代表チームデータベース検討委員会】日本代表戦の検証と認定結果(07.06.15)
^ a b 日本サッカー協会編「日本代表公式記録集The Yearbook of JFA 2011」
^ 一志治夫 (1993), p13
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^ a b c d e f 三浦知良 (2006), p254-255 ※生誕から2006年1月までの略歴
^ 一志治夫 (1993), p12
^ 一志治夫 (1993), p19
^ 一志治夫 (1993), p14
^ 一志治夫 (1993), p29
^ 一志治夫 (1993), p51
^ 一志治夫 (1993), p50
^ SBSカップ アーカイブス >> 1回~10回大会(SBSカップ公式サイトより)
^ 一志治夫 (1993), p51
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^ 田崎健太「国境なきフットボール」第7回 カズの足跡を辿って (前編) スポーツコミュニケーションズ、2008年04月11日
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^ スポニチ Sponichi Annex – 平山衝撃!カズさん逮捕された? 2008年02月25日付
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^ David James、三浦和良 (2011年4月20日). “Dear KAZU カズへの手紙 from David James (3/3)”. Nunber Web. 2011年5月14日閲覧。
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^ a b 矢内由美子 (2009), p26
^ “神戸・朴がV弾!出た~本家公認カズダンス”. デイリースポーツオンライン. (2011年5月7日) 2011年5月14日閲覧。
^ やるぜカズダンス!被災地へ届け勇気の舞 デイリースポーツ 2011年3月29日
^ http://www.rsssf.com/miscellaneous/century.html#goals
注釈 [編集]
^ 書籍『足に魂こめました』『三浦知良物語』では1986年1月と記載されている。本人公式サイト『HISTORY – BOA SORTE KAZU!』、および書籍『蹴音』『たったひとりのワールドカップ』の略歴では1985年1月と記載されている。
^ 1982年はロス疑惑報道が活発化する2年前である。銃撃事件がその前年に起き、この時点では三浦和義は銃社会アメリカで妻を失った悲劇の主人公として報道されていた。
^ カズ本人が2007年1月7日放送の『ジャンクSPORTS』にてこの件を問われた際「真似をしてもらうのはうれしい。でも城のダンスを見たら変だったので、やるならちゃんとやってくれ、と言った」と語っている。

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