ウィリアム・シェイクスピア「過去と未来は最高によく思える。 現在の事柄は最高に悪く思える」 | 笑いヨガには、福来たる!世界は愛と笑いに満ちている!!

ウィリアム・シェイクスピア「過去と未来は最高によく思える。 現在の事柄は最高に悪く思える」

ウィリアム・シェイクスピアの名言

オリヴィア・デ・ハヴィランド¥ 500

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逆境が人に与えるものこそ美しいではないか。それはガマガエルに似て醜く、毒を含んでいるが、その頭の中には宝石をはらんでいる。

橋は大水のときの川幅より長くなくともよい。いま必要なものの用に応じてこそ、格好がよいというもの。役に立つことが、まず肝要だ。

私たちの存在は、夢と同じような儚いもの。この小さな人生は、眠りによってけりがつくものなのだから。

ふたつの道のうち、どっちにしても極端に走るような人は、嫌悪すべきだ。
シェイクスピア¥ 380

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慈悲の本質とは、強制されないということである。それは恵みの雨のように、天からこの大地に降り注ぐものだ。それは、二重に祝福するもの。与える者を祝福し、そして受けるものを祝福する。それは、最も偉大なる者にあると、最も偉大な力になる。

今晩一晩は我慢しなさい。そうすれば、この次はこらえるのが楽になる。そして、その次はもっと楽になる。

安心、それが人間の最も身近にいる敵である。

いまが最悪の状態と言える間は、まだ最悪の状態ではない。

険しい山に登るには、最初からゆっくりと歩くことが必要だ。
シェイクスピア¥ 380

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求めて得られる愛は素晴らしい。
でも求めることなく与えられる愛はもっといい。

時というものは、それぞれの人間によって、それぞれの速さで走るものだ。

楽しんでやる苦労は、苦痛を癒すものだ。

雄弁が役に立たないときにも、純粋な、無邪気な沈黙が、かえって相手を説得することがある。

愚かな知恵者になるよりも、利口な馬鹿になりなさい。

愚者は己が賢いと考えるが、賢者は己が愚かなことを知っている。

貧乏でも満足している人間は金持ち、それも非常に金持ちです。しかし、大金を持っている人でも、いつ貧乏になるかと恐れている人間は、冬枯れのようなものです。

金を貸すと、金も友達もなくしてしまう。金を借りると、倹約の心が鈍ってしまう。

誰の言葉にも耳をかたむけろ。誰のためにも口を開くな。

快い眠りこそ、自然が人間に与えてくれる優しく懐かしい看護婦だ。

いちばん賤しい者となり、いちばんひどい逆境に沈んでいる者は、常に望みを持ちなさい。怯えることはない。最上の幸福から零落することは悲しむべきだが、不運のどん底に沈むと、また浮かび上がって笑うことにもなる。
ウィリアム シェイクスピア¥ 714

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お前たちもみな知っているように、慢心は人間最大の敵だ。運命をはねつけ、死を嘲り、野望のみを抱き、知恵も恩恵も恐怖も忘れてしまう。

外観というものは、一番ひどい偽りであるかもしれない。世間というものはいつも虚飾にあざむかれる。

人を邪な道に引き込むため、悪魔が真実を言うことがある。わずかな真実で引き込んでおいて、深刻な結果で裏切るために。

悪事によって得たものは、悪事の報復を受ける。

偉人には三種類ある。生まれたときから偉大な人、努力して偉人になった人、偉大な人間になることを強いられた人。

過去の弁解をすると、その過失を目立たせる。

成し遂げんとした志を、ただ一回の敗北によって捨ててはならぬ。

他人もまた同じ悲しみに悩んでいると思えば、心の傷は癒されなくても、気は楽になる。

天は自ら行動しない者に救いの手を差し伸べない。

馬鹿は自分のことを賢いと思い、賢明な人間は自分が愚か者であることを知っている。

全世界は一つの舞台であり、すべての男と女はその役者にすぎない。彼らは退場があり入場があり、ひとりの人間が一度の登場で多くの役を演じる。

人間の生活においても、ある種の潮流がある。満ち潮に乗れば、幸運に導かれる。無視をすれば、人生の旅は苦しみの浅瀬に漂うだけとなる。私たちはいま、そういう海に浮かんでいる。だから、その潮流に乗らなければならない。さもなければ、賭けているものをすべて失くすことになるのだ。
ウィリアム シェイクスピア¥ 890

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いま望んでいるものを手にして、何の得があろうか。それは夢、瞬間の出来事、泡のように消えてしまう束の間の喜びでしかない。一週間嘆くとわかっていて、一分間の快楽を買う人がいようか。あるいはおもちゃと引き換えに、永遠の喜びを売る人はいようか。甘さを求めて、ブドウ一粒のために、ブドウの樹を倒してしまう人は、はたしているだろうか。

臆病者は本当に死ぬまでに何度死ぬかわからぬが、勇者はただ一度しか死を味わわない。

私たちがどんなに粗削りをしておいたとしても、神の摂理が最後の仕上げをしてくれるものだ。

バラと呼んでいるものは、名前が他のものであろうと、香りの素晴らしさに違いはないはず。

この天地の間には、哲学なんかでは到底思い及ばぬことがたくさんある。

彼らの非道は私の骨の髄まで痛めつけた。だが、私は自分の怒りに立ち向かい、高貴な理性の味方になろう。復讐よりは、許しの徳こそが気高い行為なのだ。

人間は、自分流にものごとをそれぞれ解釈して、そんな解釈がものごとそのものの本質と、まったくかけ離れていることもある。

世界は舞台だ、誰もが何か役割を演じなければならない。

人生とは、ただの歩いている影、下手な役者。つまり、舞台の上を持ち時間だけばたばた慌てて歩き回り、それっきり名を聞かなくなる、そんな奴なのだ。

ひとつの立派な行為が、誰の口にのぼることなく死んでゆく。それは残ってあとに待つ立派な行為を何千も屠殺することになる。

お前もわかっているが、我らだけが不幸なのではない。この広い宇宙という劇場でははるかに苦悶に満ちた劇が演じられているのだ。

正義の道一筋を突き進むのでは、私たちは誰ひとり、救いに出会うことはない。

上手く話しをするということは、一種のよい行為だ。しかし、言葉は言葉、行為ではない。

神々は正しい、そして我らの快楽の悪徳を、我らに呵責を与える道具とする。
オリビア・ハッセー¥ 1,000

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嫉妬とは、自分ではらんで自分勝手に生まれる化け物なのです。

傷の疼きを感じたことのない者だけが、他人の傷痕を見てあざ笑う。

心に音楽を持たず、美しい音の調和に心動かされない者は反逆、暴動、略奪にこそ向いてはいるが、その精神の動きは夜のように鈍い、その情愛は暗闇の冥界のようだ。そういう人を信用してはならない。

私たちの疑いは反逆者であり、やろうとしないから失敗してしまうという安易な道に私たちを誘いこむのである。

ヘレナ・ボナム・カーター
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ウィリアム・シェイクスピア
William Shakespeare

誕生 1564年4月26日(洗礼日)
ストラトフォード・アポン・エイヴォン
死没 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日)
ストラトフォード・アポン・エイヴォン
墓地 ストラトフォード・アポン・エイヴォン、ホーリー・トリニティ教会
職業 劇作家、詩人
言語 英語
国籍 イングランド
活動期間 1589 – 1613
処女作 ヘンリー六世 第1部
配偶者 アン・ハサウェイ

ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) – 1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日))は、英国の劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、最も優れた英文学の作家とも言われている。また彼ののこした膨大な著作は、初期近代英語の実態を知る上での貴重な言語学的資料ともなっている。

出生地はイングランド地方ストラトフォード・アポン・エイヴォンで、1585年前後にロンドンに進出し、1592年には新進の劇作家として活躍した。1612年ごろに引退するまでの約20年間に、四大悲劇「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」をはじめ、「ロミオとジュリエット」、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残した。「ヴィーナスとアドーニス」のような物語詩もあり、特に「ソネット集」は今日でも最高の詩編の一つと見なされている。

ウィリアム・シェイクスピアの生涯

ウィリアム・シェイクスピアの前半生

ウィリアム・シェイクスピアは1564年にイングランドのストラトフォード・アポン・エイヴォンに生まれた。父ジョン・シェイクスピアはスニッターフィールド出身の成功した皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員であった。母メアリ・アーデンはジェントルマンの娘であり、非常に裕福な家庭環境であった。2人は1557年ごろに結婚し、ヘンリー・ストリートに居を構えていた。ウィリアムの正確な誕生日は不明であるが、1564年4月26日に洗礼を受けたことが記録されている。

エリザベス朝時代には出生証明書が発行されていなかったので、これがシェイクスピアに関する最古の公的記録となる。洗礼式は生誕後3日以内に行なうのが当時の通例であったため、伝統的に誕生日は4月23日とされてきたが、直接これを示す歴史的な証拠にもとづいているわけではない。この日は聖人暦においてイングランドの守護聖人である聖ゲオルギウスを祀るサン・ジョルディの日にあたるため、イングランドの最も偉大な劇作家にふさわしい日であることや、シェイクスピアは1616年の4月23日(グレゴリオ暦では5月3日)に没しているため、誕生日も4月23日であったとすると対称になることなどがこの推定を支持している。

シェイクスピアの両親には全部で8人の子供がいた。ジョン(1558年)、マーガレット(1562年 – 1563年)、ウィリアム、ギルバート(1566年 – 1612年)、ジョーン(1569年 – 1646年)、アン(1571年 – 1579年)、リチャード(1574年 – 1613年)、エドモンド(1580年 – 1607年)である。

シェイクスピアの父はウィリアムの生まれたころには裕福であったが、羊毛の闇市場に関わった咎で起訴され、市長職を失った。いくつかの証拠から、父方、母方の両家ともローマ・カトリックの信者であった可能性が推測されている。

シェイクスピアはストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校 (King Edward VI School Stratford-upon-Avon) に通ったであろうと推定されている。 校名に冠されているエドワード6世と学校の設立の起源になんら関係はなく、創設に関与したのはローマ・カトリックであり、エドワード6世の時代を大きく遡る15世紀初頭に開校されている[3]。 エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校はラテン語文法や文学について集中学習が行なわれていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである。

シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』 (“The Two Menaechmuses”) との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される根拠の一つである。1482年にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である。

1582年11月29日、18歳のシェイクスピアは26歳の女性アン・ハサウェイ (Anne Hathaway) と結婚した。ある公文書において彼女はストラトフォードにも近い「テンプル・グラフトンの人」と誤記されている(実際にはショッタリー出身)ので、結婚式がそこで行なわれた可能性が高い。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。このときすでにアンは妊娠3ヶ月だったため、式次第を急ぐ必要があった模様である。

1583年5月26日、ストラトフォードで長女スザンナの洗礼式が執り行なわれた。1585年には長男ハムネットと、次女ジュディスの双子が生れ、2月2日に洗礼が施された。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんで付けられた。ハムネットは1596年に夭折し、8月11日に葬儀が行なわれた。

結婚後、ロンドンの劇壇に名を現わすまでの数年間に関するその他の記録はほとんど現存していない。双子が生まれた1585年からロバート・グリーンによる言及のある1592年(後述)までの7年間は、どこで何をしていたのか、なぜストラトフォードからロンドンへ移ったのかなどといった行状が一切不明となっているため、「失われた年月」 (The Lost Years) と呼ばれる。 この間の事情については、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」など、いくつかの伝説が残っているがいずれも証拠はなく、これらの伝説はシェイクスピアの死後に広まった噂である。

シェイクスピアがランカシャーで教職についていたという説は、1985年にE・A・J・ホニグマンによって提唱されたもので、ホートン家の人物が記した遺言書にもとづいている。この中に戯曲や舞台衣装についての言及と、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト (William Shakeshaft) 」の面倒を見てやってほしいという親族への要請があり、このシェイクシャフトなる人物こそシェイクスピアのことではないかというものである。

ストラトフォード出身のシェイクスピアとランカシャーのホートン家を結びつけるのは、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンである。ランカシャーの生まれでホートン家の隣人であったコットンがシェイクスピアを教師として推薦したとホニグマンは主張している。

マイケル・ウッドは、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことをつけ加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている。

ウィリアム・シェイクスピアのロンドンの劇壇進出

1592年ごろまでにシェイクスピアはロンドンへ進出し、演劇の世界に身を置くようになっていた。当時は、エリザベス朝演劇の興隆に伴って、劇場や劇団が次々と設立されている最中であった。

その中で、シェイクスピアは俳優として活動するかたわら次第に脚本を書くようになる。1592年にはロバート・グリーンが著書『三文の知恵』 (“Greene’s Groatsworth of Wit”) において、「役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァースを自分も紡ぎうると慢心している。

たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者 (Shake-scene) であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでにかちえていたことが知られている(グリーンはシェイクスピアを名指しで批判しているわけではないが、下線部が『ヘンリー六世 第3部』第1幕第4場のヨーク公のセリフ “O tiger’s heart wrapt in a woman’s hide!”(「女の皮を被っていても、心は虎も同然だ!」)をもじって引用していることや、「舞台を揺るがす者」 (“Shake-scene”) がいかにもシェイクスピアを連想させる名であることから、シェイクスピアに対する非難であることはほぼ間違いないとされる)。

1594年の終わりごろ、シェイクスピアは俳優兼劇作家であると同時に、宮内大臣一座として知られる劇団の共同所有者ともなっており、同劇団の本拠地でもあった劇場グローブ座の共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣がパトロンとなっていた。1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位したさい、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため国王一座へと改称することになるほど、シェイクスピアの劇団の人気は高まっていた。シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている。

高等教育を欠いてはいたものの、シェイクスピアは長らくジェントルマンの地位を求めていた。まだ裕福であったころシェイクスピアの父は紋章を取得するために紋章院へ嘆願をしており、もし受理されればこの紋章は息子であるシェイクスピアが受け継ぐことになるものであった。

俳優(当時はいかがわしい職業であった)のシェイクスピアには紋章を得る資格がなかったが、ストラトフォードの役人であり妻の生まれもよかった父ジョン・シェイクスピアは充分に資格を備えていた。しかし一家の財政が傾いていたためになかなか望みを叶えることができなかったのである。1596年に再び申請をはじめ、シェイクスピア家は紋章を手にすることができた。おそらくシェイクスピア自身が経済的に大きな成功を収めていたためである。紋章に記された銘は “Non sanz droict” (権利なからざるべし)であったが、これはおそらく銘を考案したシェイクスピアのある種の守勢や不安感を示している。社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようである。

1596年にビショップスゲイトのセント・ヘレン教区へ転居。1598年にグローブ座で初演されたベン・ジョンソンの『十人十色』 (“Every Man in His Humour”) では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されており、俳優としての活動も盛んであったことが見て取れる。また1598年ごろから、それまでは匿名のまま刊行されることが多かったシェイクスピアの四折判のタイトル・ページに著者名が記されるようになったが、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していた事が窺われる。

シェイクスピアは国王一座で上演する戯曲の多くを執筆したり、劇団の株式の共同所有者として経営に関与したりするかたわら、俳優業も継続して『ハムレット』の先王の幽霊や、『お気に召すまま』のアダム、『ヘンリー五世』のコーラスなどを演じたといわれる。

シェイクスピアは1599年内にテムズ川を渡ってサザックへ転居したと見られる。1604年には家主の娘の仲人をつとめた。この娘の結婚が原因で1612年に起きた裁判の記録にシェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年にシェイクスピアはユグノーの髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細について交渉してくれるようシェイクスピアに仲介を頼んだ。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年たっても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピアが召喚されたが、シェイクスピアは当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。

法的問題や商取引についてのさまざまな公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピアは大きな経済的成功を収め、ロンドンのブラックフライヤーズの不動産や、ストラトフォードで2番目に大きな邸宅ニュー・プレイスを購入するまでになっていたことが分かる。

ウィリアム・シェイクスピアの晩年

シェイクスピアは1613年に故郷ストラトフォードへ引退したと見られている。
シェイクスピアの生涯最後の数週間に起きた事件は、次女ジュディスに関わる醜聞であった。ジュディスの婚約者であった居酒屋経営者のトマス・クワイニーが地元の教会裁判所で「婚前交渉」の嫌疑で告発されたのである。マーガレット・ホイーラーという女性が私生児を産み、その父親がクワイニーであると主張してまもなく母子ともども死亡したのである。この一件でクワイニーの名誉は失墜し、シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正した。

1616年4月23日にシェイクスピアは52歳で没した。死因は腐りきったニシンから伝染した感染症であるらしいが、詳細は不明である。誕生日が4月23日であるという伝承が正しいならば、シェイクスピアの命日は誕生日と同じ日ということになる。シェイクスピアはアン・ハサウェイを生涯の妻とし、2人の娘、スザンナとジュディスを残した。息子のハムネットは1596年に夭折している。スザンナは医師のジョン・ホールと結婚し、2人の間に生まれた娘エリザベス・ホールがシェイクスピア家の最後の1人となった。今日、シェイクスピアの直系の子孫は存在しない。しかし、シェイクスピアが名付け親になったウィリアム・ダヴェナント(17世紀の詩人、劇作家。『マクベス』の改作などを執筆している)の実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことはある。


シェイクスピアはストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会の内陣に埋葬された。シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの十分の一税を教会に納めていた高額納税者であったためである。シェイクスピアの墓所に最も近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと考えられるシェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアの執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年シェイクスピアの誕生日(とされる日)には、胸像の右手がもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアみずからが書いたものと考えられている。

“ Good friend, for Jesus’ sake forbear,
To dig the dust enclosed here.
Blest be the man that spares these stones,
And cursed be he that moves my bones.

シェイクスピアの未発表作品が副葬品として墓の中に眠っているという伝説があるが、確かめた者はいない。
没後7年を経た1623年、国王一座の同僚であったジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルによってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集ファースト・フォリオが刊行された。

ウィリアム・シェイクスピアの作品

シェイクスピアの戯曲の多くは、洋の古今東西を問わず世界全体の中で最も優れた文学作品として評価されている。1623年にジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルによって編纂されたファースト・フォリオにおいて、これらの作品は悲劇・史劇・喜劇という3つのジャンルに分けられた。シェイクスピアの作品は、そのすべてが多くの国の言葉に翻訳され、各地で上演されている。

当時としては一般的なことであるが、シェイクスピアの戯曲は他の劇作家の作品に依拠しているものや、古い説話や歴史資料文献に手を加えたものが多い。例えば、おそらく『ハムレット』(1601年ごろ)は現存していない先行作品(『原ハムレット』と呼ばれる)を改作したものであることや、『リア王』が同じ題名の過去の作品を脚色したものであることなどが研究の結果明らかとなっている。

また歴史上の出来事を題材としたシェイクスピアの戯曲は、古代ローマや古代ギリシアを舞台としたものと近世イングランドを舞台としたものの2種類に大別されるが、これらの作品を執筆するにあたり、シェイクスピアが資料として主に用いたテキストは2つある。前者の材源はプルタルコスの『英雄伝』(トマス・ノース (Thomas North) による1579年の英語訳)であり、後者が依拠しているのはラファエル・ホリンシェッドの『年代記』(”The Chronicles of England, Scotland, and Ireland”、1587年の第2版)である。『年代記』は史劇だけでなく『マクベス』や『リア王』の素材ともなっている。

またシェイクスピアは同時代の劇作家(シェイクスピアと同年の生まれだが早くから才能を現していた)クリストファー・マーロウの文体を借用していると考えられることもある。 シェイクスピアの作品の中でも、劇作法、テーマ、舞台設定などの点からみて最も独創的といえるのは『テンペスト』である。

シェイクスピアの戯曲のいくつかは四折判の単行本として刊行されているが、多くの作品はファースト・フォリオに収録されるまで未刊行のままであった。シェイクスピアの作品を悲劇・喜劇・史劇に分類する伝統的な区分は、このファースト・フォリオの構成に従ったものである。喜劇的な筋書きでありながらも倫理的な悩ましい問いかけを提示するような複雑な作品もいくつか存在するが、フレデリック・ボアズやW.W.ローレンス、E.M.W.ティリヤードといった近代の批評家は、これらの作品に「問題劇」ないし悲喜劇の用語を与えている。後期の喜劇作品に「ロマンス劇」の語が適用されることもある。

シェイクスピアの戯曲の正確な創作年代については多くの議論がある。またシェイクスピアが生前に自作の信頼できる版を刊行しなかったという事実により、シェイクスピア作品の多くがはらんでいるテキスト上の問題が起きている。すなわち、すべての作品の刊本の版ごとに、多かれ少なかれ原文に異同のある異本が存在しているのである(このため、シェイクスピアが実際に書いた部分と別人による改変を特定ないし推定する本文批評が現代の研究者や編者にとって大きな問題となる)。ベン・ジョンソンのような他の劇作家と異なり、シェイクスピアは自作の定本を刊行することに関心を払っていなかったと考えられる[22]。 こうした異本は、底本がシェイクスピアの自筆原稿であったか筆耕者の手を経た清書稿であったかにかかわらず、印刷業者のミスや植字工の誤読、原稿の読み違えで正しい順に詩行が配置されなかったことなどにより生じる。

一つの作品について極端に異なる二つのヴァージョンが存在する場合に問題は深刻になる。バッド・クォートと呼ばれる、ズタズタに切り刻まれた粗悪な刊本が数多く存在するが、これらはファースト・フォリオの編者が「盗用された海賊版」と非難しているものと考えられる。

それほど台無しにされたわけではない異本については、一概に無視できないものがある。例えば、『リア王』の四折判と二折判には大きな違いが見られる。伝統的に、編者は両方のヴァージョンからすべての場面を取り入れて融合することにしている。しかし、マドレーン・ドーラン(Madeleine Doran)以降、両方を別物とみなし、『リア王』という1つの戯曲に2つのヴァージョンの存在を認めるという動きもある。ゲイリー・テイラーとロジャー・ウォーレンは共著 “The Division of the Kingdom” において、『リア王』に見られるような異同は、1つのテキストが異なる形で刊行されたのではなく、テキスト自体が異なる形で2つ存在していたためだという説を提唱している。

この仮説は一般に広く受け入れられてはいないが、その後数十年間の批評や編集の指針に影響を与えており、ケンブリッジ版とオックスフォード版の全集では、『リア王』の四折判と二折判のテキストが両方とも別個に収録されている。

ウィリアム・シェイクスピアの作風・執筆歴

シェイクスピアの劇作家としての活動は1592年頃から始まる。フィリップ・ヘンズロウの日記(当時の劇壇の事情を知る重要な資料として知られる)に『ヘンリー六世 第1部』と思われる戯曲が1592年3月から翌年1月にかけて15回上演されたという記録が残っているほか、同じく1592年にはロバート・グリーンの著書に新進劇作家シェイクスピアへの諷刺と思われる記述がある。これらが劇作家としてのシェイクスピアに関する最初の記録である。

最初期の史劇『ヘンリー六世』三部作(1590-92年)を皮切りに、『リチャード三世』『間違いの喜劇』『じゃじゃ馬ならし』『タイタス・アンドロニカス』などを発表し、当代随一の劇作家としての地歩を固める。これらの初期作品は、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類される。

ペストの流行により劇場が一時閉鎖された時期には詩作にも手を染め、『ヴィーナスとアドーニス』(1593年)や『ルークリース陵辱』(1594年)などを刊行し、詩人としての天分も開花させた。1609年に刊行された『ソネット集』もこの時期に執筆されたと推定されている。1595年の悲劇『ロミオとジュリエット』以後、『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』といった喜劇を発表。これら中期の作品は円熟味を増し、『ヘンリー四世』二部作などの史劇には登場人物フォルスタッフを中心とした滑稽味が加わり、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔の色付けがなされるなど、作風は複眼的な独特のものとなっていく。

1599年に『ジュリアス・シーザー』を発表したが、この頃から次第に軽やかさが影をひそめていったのが後期作品の特色である。1600年代初頭の四大悲劇といわれる『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、同じころに書いた『終わりよければ全てよし』『尺には尺を』などの作品は、喜劇作品でありながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣らぬ重さや暗さをもつため、19世紀以降「問題劇」と呼ばれている。

『アントニーとクレオパトラ』『アテネのタイモン』などののち、1610年前後から書くようになった晩期の作品は「ロマンス劇」と呼ばれる。『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物語』『テンペスト』の4作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といったプロットの他に、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていたが、20世紀以降再評価されるようになった。
シェイクスピアは弱強五歩格という韻律を好んだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』のように散文の比率が高い戯曲もある。

ウィリアム・シェイクスピアの書誌

ヘンリー六世 第1部(Henry VI, Part 1、1589年 – 1590年)
ヘンリー六世 第2部(Henry VI, Part 2、1590年 – 1591年)
ヘンリー六世 第3部(Henry VI, Part 3、1590年 – 1591年)
リチャード三世(Richard III、1592年 – 1593年)
ジョン王(King John、1594年 – 1596年)
リチャード二世(Richard II、1595年)
ヘンリー四世 第1部(Henry IV , Part 1、1596年 – 1597年)
ヘンリー四世 第2部(Henry IV, Part 2、1598年)
ヘンリー五世(Henry V、1599年)
ヘンリー八世(Henry VIII、1612 – 1613年)

ウィリアム・シェイクスピアの悲劇

タイタス・アンドロニカス(Titus Andronicus、1593 – 94年)
ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、1595 – 96年)
ジュリアス・シーザー(Julius Caesar、1599年)
ハムレット(Hamlet、1600 – 01年)
トロイラスとクレシダ(Troilus and Cressida、1601 – 02年)P
オセロー(Othello、1604年)
リア王(King Lear、1605年)
マクベス(Macbeth、1606年)
アントニーとクレオパトラ(Antony and Cleopatra、1606年 – 1607年)
コリオレイナス(Coriolanus、1607年 – 1608年)
アテネのタイモン(Timon of Athens、1607年 – 1608年)

ウィリアム・シェイクスピアの喜劇

間違いの喜劇(Comedy of Errors、1592年 – 1594年)
じゃじゃ馬ならし(Taming of the Shrew、1593年 – 1594年)
ヴェローナの二紳士(The Two Gentlemen of Verona、1594年)
恋の骨折り損( Love’s Labour’s Lost、1594年 – 1595年)
夏の夜の夢(A Midsummer Night’s Dream、1595年 – 96年)
ヴェニスの商人(The Merchant of Venice、1596年 – 1597年)
空騒ぎ(Much Ado About Nothing、1598年 – 1599年)
お気に召すまま(As You Like It、1599年)
ウィンザーの陽気な女房たち(The Merry Wives of Windsor、1597年)
十二夜(Twelfth Night, or What You Will、1601年 – 1602年)
終わりよければ全てよし(All’s Well That Ends Well、1602年 – 1603年)P
尺には尺を(Measure for Measure、1604年)P
ペリクリーズ(Pericles, Prince of Tyre、1607年 – 1608年)R
シンベリン(Cymbeline、1609 – 10年)R
冬物語(The Winter’s Tale、1610年 – 1611年)R
テンペスト(The Tempest、1611年)R
二人のいとこの貴公子(The Two Noble Kinsmen、1613年)R
Rはロマンス劇、Pは問題劇ともカテゴライズされる作品である。

ウィリアム・シェイクスピアの詩作品

ソネット集(The Sonnets)
ヴィーナスとアドーニス(Venus and Adonis)
ルークリース凌辱(The Rape of Lucrece)
情熱の巡礼者(The Passionate Pilgrim)
不死鳥と雉鳩(The Phoenix and the Turtle)
恋人の嘆き(A Lover’s Complaint)

ウィリアム・シェイクスピアの外典と散逸した戯曲

エドワード三世(Edward III、1596年)
カルデーニオ(Cardenio)
恋の骨折り甲斐(Love’s Labour’s Won)
ほか

シェイクスピア別人説

シェイクスピア自身に関する資料が少なく、手紙や日記、自筆原稿なども残っていない。また、法律や古典などの知識がなければ書けない作品であるが、学歴からみて不自然であることから、別人が使った筆名ではないかと主張する人や、「シェイクスピア」というのは一座の劇作家たちが使い回していた筆名ではないかと主張する者もいる。真の作者として推定された人物には哲学者フランシス・ベーコンや第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアー、同年生れの劇作家クリストファー・マーロウ、シェイクスピアの遠縁にあたる外交官ヘンリー・ネヴィルなどがいる。

もっとも英文学者でまともに別人説を取上げる人はほとんどいないようである。全戯曲を翻訳したシェイクスピア研究家の小田島雄志は、資料が残っていないのは他の人物も同様である、シェイクスピアは大学に行かずエリート意識がなかったから生き生きした作品が書けたのだ、と一蹴している。

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